ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

坂詰力治(2002.3)中世における助動詞の接続用法に関する一考察:終止形接続の助動詞「まじ」「らん」「べし」を中心に

坂詰力治(2002.3)「中世における助動詞の接続用法に関する一考察:終止形接続の助動詞「まじ」「らん」「べし」を中心に」『文学論藻』76

要点

  • 終止形連体形の統合が終止法以外の終止形にも及ぶことについて、特に室町におけるマジ・ラン・ベシを見る
  • 室町(虎明本・天草平家・論語抄)においては、
    • 助動詞そのものは文語・口語が混用されているものの、旧終止形接続が守られている
    • ただし、マジ・マイ、ベシは二段活用・サ変未然形(あるいは連用形)接続の例があり、ここに室町口語の反映を見ることができる
  • 室町の文語(曾我・御伽草子)においては、
    • 曽我物語では
      • 基本的に旧終止形接続であるが、
      • ラン・ベシに僅かに連体形(新終止形)・未然形接続の例がある
    • 御伽草子でも、ベシには未然形接続の例がある
  • 鎌倉の軍記にも
    • 同様に、マジに未然形接続の例があり、
    • ランにツルラン・スルラムの例(新終止形)があり、
    • ベシにもマジ同様の未然形接続の例がある
    • 他、撰集抄に「見ゆるめり」、発心集に「出ヅルメリ」もある
  • 終止形連体形の統合は口語現象で、それは室町口語資料に顕著にあらわれている
    • 未+マジ・ベシ、連体形+ラウは、統合の影響を受けた二段活用・カ変・サ変にはそれほど多くないが、
    • それは、四段・一段が統合の影響を外形上受けなかったということと、
    • 中世前期の未+マジ・ベシがそのまま口語の世界に流れ込んで固定化した用法と混在したことによる
    • 未+マジ・ベシは、推量や否定への接続への類推によるものであろう*1

雑記

  • 坂詰先生、「東京深川に生まれる」てかっこいいな

*1:統合と関係あるという見方なのか、特に関係ないという見方なのかがよく分からない(し、前者だとしたらそう捉える理由もあまり分からない、旧終止形が固定化すると見るのか、無くなると見るのか)

小木曽智信(2020.3)通時コーパスに見るモダリティ形式の変遷

小木曽智信(2020.3)「通時コーパスに見るモダリティ形式の変遷」田窪行則・野田尚史(編)『データに基づく日本語のモダリティ研究』くろしお出版

要点

  • CHJを用いて、モダリティ形式の大きな変化を見る
    • 古代語はム・ムズ・ジ、ケム・ベシ・マジ・ラシ・メリ
    • 近現代語はウ・ヨウ、マイ、ダロウ、ヨウダ、ソウダ、ラシイ、カモシレナイ、ニチガイナイ
  • ジャンル差の限界に注意しつつ、時代別の頻度(pmw)の推移を見ると、
    • 上代・中古では、
      • マジ・ムズが中古に現れること、ラシが中古に激減しメリが急増すること
      • 上代で極めて高いムの割合が中古で下がり、ベシなどの他形式がが増えること
      • モ形式の使用そのものの頻度自体には文体差が関わるが、種々の形式を使うようになるのは中古散文も和歌も同様の傾向
    • 中世では、
      • ウ・マイ、ソウダ・ヨウダが多く認められ、ラシは消滅、ジ・ケム・ラム・メリは大幅に頻度を下げる
      • 特に文語形式において、地の文でのモ形式の使用が半減する一方、ムズは増加、ム・ベシの頻度も大きくなる(他の助動詞の衰退傾向が見える)
    • 近世は、ダロウ・ニチガイナイの登場、ソウダ・ヨウダの上昇により現代に近づく
    • 近代では、
      • 口語において、ウ・ヨウが減少、ダロウやその他の現代的モ形式は増加する
      • 一方文語においては、ほぼムとベシだけが用いられる(96%)
        • ただし、口語と同様、近代文語も「いわば近代文語複合辞」がモを担っている
          • ありうべし、か知らず、ざるをえず、ずんばあらず、ならんか、に相違なし、ねばならぬ、べくもあらず
          • 「これらの中には現代口語文のモダリティを表す複合辞・連語に影響を与えたもの、逆に口語のモダリティ形式を文語化したものなどが認められるようである」
    • 現代は、全体の頻度がさらに小さくなるが、これはモの表現そのものが減ったというよりも、調査外の多様な要素(みたいだ、じゃないか、思われる)や文中の副詞によって担われるようになった可能性が考えられる
  • 全体として、
    • 文語助動詞の一貫した頻度の減少傾向と、一つの助動詞が叙法として多様な意味を表す体制から形式と意味が対応した個別形式で表す体制への転換
    • 口語もやはり頻度は減少傾向にある

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p.79

雑記

  • 新学期始まったけど結構時間に余裕あるな!→研究してないだけでした

福田嘉一郎(2000.3)天草本平家物語の助動詞ラウ

福田嘉一郎(2000.3)「天草本平家物語の助動詞ラウ」『国文研究(熊本女子大学)』45

要点

  • 原拠本との天草版との比較により、室町のラウの意味や機能について考える
  • 天草版のラウは原拠本では、
    • ラウの場合:ラムの他、ムズラム、ツラム、ケムで、前接語は存在動詞と思考動詞に偏る
    • ウズラウの場合:ラム、ムズラム、ム、ナムズ
    • ツラウの場合:ラム、ツラム、タルラム、ケム、タリケム
  • 覚一本のラムは天草版では、
    • ラム>ラウ、ムズラム>ウ・ウズ・ウズル
  • 益岡1991の「存在判断型」の「断定保留」(ダロウ相当)を「事態存在の推量」、「叙述様式判断型」の「断定保留」(ノダロウ相当)を「叙述様式適正の推量」とすると、
  • 天草版には「叙述様式適正」(ノダロウ相当)のラウがあり、モノデアラウがこれと交替していったと考えられる
    • 成親卿のござる所をわれに知らせまいとてこそ申すらうとて
  • まとめ*1
    • 存在動詞・思考動詞が前接し、コソの結びに用いられるラウが大多数で、これはラムの現在推量の意味を受け継いだ「最後の姿」
    • そうでない場合には原則的にノダロウ相当の推量を表し、モノデ・モノヂャアラウはこれと交替していく形式であった蓋然性が高い
    • 天草版のツラウはタダロウ・タノダロウの区別なく表し、近松にも現れる

雑記

  • 理系猿、ほんまに猿で笑う

*1:本文に書いてないことがめちゃ書いてある

三宅知宏(1995.12)「推量」について

三宅知宏(1995.12)「「推量」について」『国語学』183

要点

  • 推量という概念をめぐって、以下の3点について考える
    • 過度に一般化された曖昧な「推量」の概念の明確化
    • 「推量」概念を用いて説明される形式の限定
    • 「推量」概念の「認識的モダリティ」体系内での位置づけ
  • 定義、
    • 「話し手の想像の中で命題を真であると認識する」と定義し、
      • 「真偽が現実の世界では確かめられないような命題に対して、想像の世界において真であると認識している」(p.2)
      • 「断定をしない」は「推量」の定義としては不適切である
    • その形式はダロウ(デショウ)・マイ・ウ/ヨウ に限られると考える
  • 認識的モダリティを「命題の真偽に関する話し手の認識を表す意味成分」であるとすると、以下の下位類型が設定される

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p.3

  • 推量と他の類型との異なりを考える
    • 実証的判断:命題が真であるための証拠が存在すると認識する
      • 実証的判断は証拠の存在を有標的に示す
      • 実証的判断は証拠の存在を認識するので、あくまで現在の事態に対する認識を示す
    • 可能性判断:命題が真である可能性があると認識する
      • 話し手の信念との対立ではなく、むしろ断定(全ての可能性として真)と対立的(一つの可能性として真)な関係にある
      • 一つの可能性として真であればよいから、矛盾する命題も並べることができる(Aかもしれないし¬Aかもしれない)
      • 話し手の信念とは別物なので、ガ節への埋め込みが可能
    • 確信的判断:命題が真であると確信する
      • あくまでも話し手の確信に留まるので、結果的にこれも不確実になる
      • 意味上・文脈上、推量と類似するが、「責任を持って伝えるような文脈」(e.g. 天気予報)では、ニチガイナイは用いることができない
  • 以上の主張をもとにすると、
    • いわゆる確認要求との派生関係を明確に述べることができる
    • 推量以外の形式は屈折できるが、ダロウ等の推量形式は屈折しないことから、「統語構造上に占める位置が異なる」と仮定される
      • 推量は屈折語尾(機能範疇)のレベル、推量以外は助動詞(語彙範疇)のレベルと見なすことができ、統語的な法(推量法)が平叙法・命令法などと並んで存在するとも言える

雑記

  • 笠間書院があんなことになってしまって、かなしいね

神戸和昭(1999.10)黄表紙会話文の口語性について:山東京伝作『江戸生艶気樺焼』の検討を中心に

神戸和昭(1999.10)「黄表紙会話文の口語性について:山東京伝作『江戸生艶気樺焼』の検討を中心に」『近代語研究』10

要点

  • 「必ずしも明確になっていない」黄表紙の資料性について考える
    • 作者・版元が同一、刊年も近く、主要登場人物も借用する、以下2作品の比較から考える
    • 江戸生艶気樺焼(黄表紙・1785刊)、通言総籬(洒落本・1787刊)
  • 以下の7つの観点から比較検討する
    • ワア行五段・連用形はどちらもウ音便を取らず、促音便を取る
    • リ・イ語尾を取るラ五(クダサル)の連用形はどちらもイ語尾を取らず、リ語尾を取る
    • 二段活用もどちらも一段化している
    • 形容詞連用形は、どちらも敬語の場合にのみウ音便をとり(ごきげんよふ~のように固定的)、その他は原形を取る
    • コピュラは、総籬はダ専用、樺焼はヂャも見られるものの、通常の会話でなかったり、特殊な場面であったりする
    • 打消のナイ・ヌの傾向も同様で、
    • ダロウも終止法ではダロウ専用である点で共通する
  • 以上より、黄表紙会話文の口語性は洒落本と同様のものであると認められる

雑記

  • 日本における学術、しんどいな

赤峯裕子(1989.6)「まだ~ない」から「まだ~ていない」へ

赤峯裕子(1989.6)「「まだ~ない」から「まだ~ていない」へ」『奥村三雄教授退官記念国語学論叢』桜楓社

要点

  • 標記の2形式について、後者の形式は思いの外新しく、前者→前者+後者への移行は、分析的傾向の一つの現れと考えられる
    • なんだ、湯はまだあかねへか。(浮世風呂
  • 用例調査、後者の形式の成立は明治10年頃である
    • 近世期、戯作にはマダ~テイル、~テイナイがあるにもかかわらず、マダ~テイナイは現れない
    • 近代戯作、黙阿弥脚本にも現れない
    • 怪談牡丹燈籠に2例あり、その頃から散見するようになる
    • 他の「話し言葉」資料では、帝国議会の速記録にあり、これは上の流れとも符合する
  • モウ~テイルが近世後期にはあるにもかかわらず、モウ~テイナイは明治初期にはまだ出現していない、このことはマダ~テイナイと相似的である

雑記

  • yhkondo先生、あんだけやばい人々に絡まれまくってなぜ平常心でいられるんだろう

江原由美子(2002.11)トモによる逆接条件表現

江原由美子(2002.11)「トモによる逆接条件表現」『岡山大学大学院文化科学研究科紀要』14

要点

  • 逆接仮定条件のトモが事実を述べる場合に用いられることがある(大わだ淀むとも)
    • このいわゆる「修辞的仮定」が何なのかを考えるために、トモの現象面を明らかにしたい
  • トモ文の論理関係は、「こうあるべきだと期待する推論過程に反する」、「Pトモ¬Q」と示せる
    • 守り戦ふべき下組みをしたりとも、~え戦はぬ也(実現済なので修辞的仮定)/会ひ戦はんとすとも、~よもあらじ(一般的な逆接仮定・竹取)の2者に異なる点は見られない
  • また、前件の事態を前提としない場合にもトモが使用できることから、「トモの前件は後件の事態を成立させる可能性が最も低い事態」と考えられる*1
    • かの御ゆるしなくともたばかれかし(源氏・末摘花)
  • 前接語から見ると、「話し手がその成立を発話時においてみなしうる事態が前件である」という共通性がある
    • キ・推量に接続しにくく、タリ・リ・ツ・ヌには接続できる
    • 状態動詞・形容詞・ズ・連体ナリの前接も多い:これも発話時において状態・存在が持続する
    • 「従来問題とされてきた修辞的仮定のトモは機能的にも他のトモと同じであり、特殊な用法として扱う必要はないのではないだろうか」*2
  • 後件のモダリティは他の仮定条件文と同様に未実現の事態がきやすいが、そうでない場合もある(が、「呼応を無視している」わけではない)
  • ドモの場合にはトモのような、「トモ節以外の事態においても成立する」という含意が見られない
    • その代わりに、複数的な事態や甚だしい事態が前件に来やすい

雑記

  • 大学行く機会が戻ってきそうなのでノートPC買うか悩む

*1:累加で全称する場合もあるからそうとは言えない気がするな~

*2:これはほんまにそう思う