ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

藤田保幸(2016.2)引用形式の複合辞への転成について

藤田保幸(2016.2)「引用形式の複合辞への転成について」『国文学論叢』61

要点

  • 「と」+「言う」「思う」「する」に由来する複合辞が種々あることについて、共時的観点から、「引用形式から複合辞がさまざま生まれるのには、それなりの契機というべきいきさつがあり、そうなる所以のあることであるということを述べる」(p.308)もの

「言う」に関して

  • といえば・といっても
    • 「言う」の実質的な意味を喪失
    • 引用表現らしさ*1
    • 主語を取れない(動詞としての基本的性質を喪失)
  • 他、とはいえ、といえども、といっても、(から)といって
  • 段階として
    • 1 発言行為を表す動詞
    • 2 言葉を持ち出す(その上で、自ら言及)、そのような言い方をするといった抽象的な意味へ
    • 3 さらに、その言葉を、以下の言葉とどう関連付けるかを示す表現へ
      • といい、Nという、も同様

「する」に関して

  • とする・として

    • 言うと同様、実質的な意味がなく、主語を取れないという点で動詞らしさもない
    • ある事柄を設定して以下にその前提として関係づける
      • ある事柄の設定[正三角形Aの一変の長さが6cmだ]として、関連付け[Aの面積を求めよ]。
    • Nとして も同様
  • 「思う」に関しても同様なので省略

気になること

  • 興味としては、なぜ「と」+「言う」「思う」「する」にバリエーションがあるか、というところの説明が見たかったが、どちらかと言うと「という」→「といえば」「といっても」…、「とする」→「として」「としては」…という変化について*2がメインだった
    • 注1の「引用形式から複合辞への転成の基本の条件としては、述語動詞が基本的でシンプルな意味のものであるということが、まず大前提である」(p.319)ことの内実はもっと考える必要があると思う
    • 例えば、シンプルな「ある」についてはバリエーションが少ないのでは
    • 逆に言えば、「言う」は具体的な動作を表すくせに、バリエーションがありすぎ
      • 砂川(2006)*3にまとめられている

*1:論文では「引用形式としてどこかで発言されたと見なされる所与のコトバを引き写して、発言行為を描き出すといった引用表現の本質」も喪失(p.309)

*2:「「いう」「する」が実質的な意味を稀薄にして、言葉の「持ち出し」「操作」、あるいは事柄内容の「設定」といった、文表現を形作るにあたってなされる主体的な営みにあたることを表していることになることから、おのずと文表現における主体的な関係づけの表現、すなわち、辞的表現として利用されることになる」(p.314)

*3:砂川有里子(2006)「「言う」を用いた複合辞:文法化の重層性に着目して」藤田保幸・山崎誠編『複合辞研究の現在』和泉書院