志波彩子(2018.3)「受身と可能の交渉」『名古屋大学人文学研究論集』1
要点
- 「ラレル」文がどのようにして「受身」と「可能」という離れた意味を表すか、その原理について
- 併せて、志波彩子(2018.4)「ラル構文によるヴォイス体系:非情の受身の類型が限られていた理由をめぐって」 の仮説補強として
「出来文」に関して
- 事態をあえて個体の運動(動作や変化)として語らず、場における事態全体の出来、生起として語るという事態認識の仕方を表す文(尾上2003)、主語は事態の生起する「場」であると考え、自発・可能の場合は対象や行為者が「場」として認識され、主語になりうる(川村2012)*1
- 特に主語の認定が問題で、出来文説ではラレル文の格体制の多様さを説明できない
- 道夫は納豆を食べられない(「道夫」を場として事態全体が出来)
- 道夫には英単語が覚えられない(「英単語」が主語としての場となり、事態が出来したと捉えるのは問題)
- 金水(1991)の「叙景文」を尾上・川村は「発生状況描写」とするが、このタイプの非情の受身の対象が通常の受動文の主語と同等の資格を持つのかという点も問題
- 特に主語の認定が問題で、出来文説ではラレル文の格体制の多様さを説明できない
志波(2018.4)
- 志波彩子(2018.4)「ラル構文によるヴォイス体系:非情の受身の類型が限られていた理由をめぐって」
- ラルは無意志自動詞の活用語尾からの類推であるので「自然発生」の意を継承している
- が、それをメインとするなら、非情の受身こそが発達したはずだが、ラルが話し手の視点と強く結びついた構文であったために、そうはならなかった
- ラル構文の中心的機能は、有情者の話し手側から、自分に対して行為が自然発生したことを述べること、と考えれば、
- 自発:積極的な選択でない、何らかの要因で自分の行為が自然発生する
- 肯定可能:行為実現の期待はあるが意志はない、何らかの要因で自分の行為が自然発生する
- 否定可能:意志があれば通常実現する行為が、何らかの要因で自然発生しない
- 受身:自分の意志と関係なく、他者(何らかの要因)によって行為が自然発生する
- ラル構文の中心的機能は、有情者の話し手側から、自分に対して行為が自然発生したことを述べること、と考えれば、
- 非情の受身は文末でなく連体の位置で働く状態性の高い表現であったために動作主を捨象することができた
- 格体制について、自発・可能では視点が動作主にあるため、対象ヲ格、行為者主格でもOKだった。一方、受身は視点のある対象の有情者が行為者に対して主語性を強め、主格として安定した
受身と可能の分類
受身文タイプを以下のように分類
- 受身構文
- 有情主語受身
- 直接対象型:一郎にたたかれた
- はた迷惑型:二郎に本を読まされた
- 非情主語受身
- 事態実現型(実現の局面を捉える):机が外に運び出された
- 状態型(結果状態の局面を捉える):階段に絵が飾られていた
- このうち可能構文と最も近いのは、非情主語受身・事態実現型
- 有情主語受身
可能構文の適当な分類は得られていないが、受身に近づく可能の典型は、対象ガ格の可能構文
- 格体制として、
- 自動詞、動作主ガ格:座っていられない
- 他動詞、動作主ガ、対象ヲ:手紙を捨てられない
- 他動詞、動作主ニ、対象ガ:田中には新しい生徒の名前が覚えられない
- 他動詞、動作主ガ、対象ガ:ピーナッツが食べられない
- 他動詞、対象ガ(ハ):このつけまつげはジェルでつけられる→この「対象可能」が受身に近い
受身と可能の交渉
- 受身と可能の両者の解釈ができるものとして二種
- ①非情物対象がガ格
- この図書館ではたくさんの本が借りられる
- 動作主寄りで見れば可能、中立的に述べれば受身
- 細胞分裂が見られた
- 知覚・思考動詞では可能の解釈に偏る
- 可能と自動詞受身のレン属性は、無意志自動詞の可能の解釈の問題と並行する
- 魚が焼ける / この魚はフライパンでも焼ける
- この図書館ではたくさんの本が借りられる
- ②有情物がガ格
- この場合、語順が有標性を決定するため、競合はあまり起こらない
- 相撲取りは山田に投げられないだろう(受身) / 山田には相撲取りが投げられないだろう(可能)
- ①非情物対象がガ格
他言語における受身と可能の交渉
- 中近世のインドアーリア諸語
- スペイン語の中動態非人称構文
まとめ
- 受身と可能の意味が最も競合するのは非情物の対象がガ格に立つ場合で、動作主が一般化され、背景化されている場合
- ラレル文の意味の説明には「自然発生」と話し手の「視点」が重要な要素