大木一夫(2012.9)「不変化助動詞の本質、続貂」『国語国文』81-9
要点
金田一(1953)
- 金田一の結論を以下の2点に集約
- A 終止形しかない助動詞は主観的表現を表す
- 1 その形式は話し手の現在の真理しか表しえない
- B 複数の活用形をもつものは客観的表現を表す
- 2 終止形・連用中止形以外には「判断」は認められず、また、終止形・連用中止形であっても「判断」はないことがある
- 3 それらは客観的な意味を表す
- 4 呼び名が主観的(「指定」「否定」「推量」など)であっても主観的表現とはいえない
- 5 それら客観的形式は、他の客観的形式と置き換え可能(まんまるい→まんまるだ)
- A 終止形しかない助動詞は主観的表現を表す
論証手続きの適用
- 客観的表現であることの論証は手厚いが、主観的表現であることの論証は手短
- 同じことを不変化助動詞にも適用するとどうなるか?
- 2「客観的表現の終止形・連用中止形以外には「判断」は認められない」に関して、「う」「だろう」「まい」の不変化助動詞の方も連体形を持つので「不変化助動詞も客観的表現」ということになってしまう
- 日本人には「国学」として面白くても、外から見たら、何が面白いのかよくわからないだろうことは容易に想像できる
- 2「終止形・連用中止形であっても「判断」はないことがある」(→不変化助動詞終止形には必ず判断がある)ことについても、不変化助動詞終止形が判断を示さないことがある
- あそこに高いマンションが見えるだろう / 明日は平野部では晴れるでしょう
- 3 「変化助動詞は客観的な意味を表す」4 「呼び名が主観的でも主観的表現とは言えない」ことについて、不変化助動詞の意味を「不確実」として客観的に記述することが可能である
- 5もやはり、「そうだ」と置き換え可能であるので、ウも客観的だということになってしまう
- 以上より、(p.11)
- 「だろう」「う」「ょう」「まい」のような不変化助動詞も客観的である。
- 主観的な意味は、不変化助動詞の意味として考える必要はない。
- 主観的な意味は終止法(文末)にみえるものである。
- この帰結は、以下の意味を持つ
- 言語形式を主観・客観の別で見て文法的分析を進めることには慎重になる必要がある
- 語なり形態なりの持つ意味とは別に、文レベルの文法的な意味を認めるべきであること
- ※これは仁田・益岡的な文末のモダリティではなく、田野村・山岡的な、文機能レベルの問題として
補足
- 当論文は(2016)『文論序説』ひつじ書房所収版では、最後に「文法論的概念としての「主観性」の適否」が追加され、以下のことが述べられる
- 主観客観を言語形式の分類に持ち込むことの不可能性
- 階層構造を否定するものではないが、それはあくまでも「おおむね」であること