ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

仁科明(2014.9)「無色性」と「無標性」:万葉集運動動詞の基本形終止、再考

仁科明(2014.9)「「無色性」と「無標性」:万葉集運動動詞の基本形終止、再考」『日本語文法』14-2

要点

  • 基本形(終止形・連体形)終止の消極性は以下の2側面を持ち、基本形の用法はどちらかの側面が前面に出たものと説明できる
    • 形式自体の無色性
    • 体系内での無標性

前提

  • 基本形の記述の必要性は「~す」を「~する」としてしか解釈していないことの問題に出発点があり、当初は基本形に積極的意味を認めるべきかどうかという点が論点となる
  • 現在は以下の2点が問題となっており、本稿では後者の問題を中心とする
    • 事実認識に関わる問題:基本形の用法の中心をどこに見るか
    • 基本形の性格把握の問題:基本形の「消極性」をいかなるものと見るか

消極性:無色性と無標性

  • 基本形を消極的な述語形式として見るとき、その消極性には無色性と無標性という二つの面がある
    • 形式自体の無色性:動きの概念を表すだけの語形
    • 体系内での無標性:他の積極的な述語語形すべてに対して消極的であること
    • これらは関連しあっているが、ひとまずは別のもの

無標性

  • テンス・アスペクト体系における無標性を強調するもの(鈴木2009)*1
    • 基本形を不完成相・非過去として位置づけるもので、これは有標形式の規定を受けるもの
      • 不完成相は「完成的であることを積極的には表さない」ものとされる(消極的説明)
  • 以下の点で問題が残る
    • 基本形の「一般的事実の意味」の存在は、「不完成相・非過去」で説明できない
    • 現代語の基本形「完成相・非過去」との連続性がない
      • 大木(2009)*2は、基本形は今も昔も「完成相・非過去」であって変化がない可能性を示唆する

無色性

  • 「無標性」を基盤とする議論に対する反論として、例外を検討する形で組み立てられたもので、以下の立場がある
    • 吉田(1991)*3:動詞の基本形の用法が時制的に広いことの指摘
    • 大木(1997)*4:「現在の状態」とは言えない用法の検討を通じて、それらが文の述べ方と語用論的な表現意図によって異なる用法を生み出すものと考える
    • 土岐(2010)*5:動詞の基本形が「未分化」であることを強調
  • これらの立場は、用法が広く有り得ることを論じるものだが、やはり「現在」に偏ることについては説明する必要がある

無標性・無色性の両面

  • 考えるべきは以下の3点
    • 無色性を前提とすることで、無標性を捉えることができる
    • 無標性を強調すると体系からはみ出す部分の処理に困り、無色性を強調する立場でも他形式との棲み分けを意識せざるを得ない
    • それぞれが前面に出ていると見られる用法がある
  • 無色性を基本形の根本性格として考え、具体的事態に用いられる際には他の積極的形式に規定されて、無標性が表面化するものと考える

用例整理

  • ①無標性が前面に出た用法:積極的述語として働く場合
    • イ 動きの継続:竹の林にうぐひす鳴くも(824)
      • イ' 反復:すべを知らにと立ちてつまづく(543)が派生する
    • ロ 動きの終結:妹が手を取る(385)
      • 「手を取った」解釈が可能
    • ハ 恒常的事態:心むせつつ涙し流る(453)
  • ②無色性が前面に出た用法:積極的述語として働かない場合
    • ニ 遂行的描写:石麻呂に我物申す)夏痩せに良しといふものそ鰻捕り喫せ(3853)
      • ニ' 一種の未来:君により言の繁きを故郷の明日香の川にみそぎしに行く(626)に派生
        • 発話時より後に行われるものと理解せざるを得ないが、だからといって基本形が時制的に自由であるという話にはならない
        • 遂行描写の時点と実際の発話にはややズレがある(cf.3853)ので、ニの用法と連続的な理解が可能
    • ホ 実況的描写:奥山の岩に苔生し恐くも問ひたまふかも
      • 眼前事態を名付けているような用法で、ロに近いが、話し手の現実への積極的な位置づけはない
  • ③非述語用法
    • ヘ 動きへの名札:恋ふといふは…(4078)
      • 動きの名称を提示しているだけで、②と連続するものとして見る
  • なお、中古会話文では以下の指摘がある
    • 未来を表すことに中心があり、現在を表す例が少ないことが指摘されていること
      • ただし、土岐の挙げる「未来」の例は他の用法に解消できそうで、「過去」の例は現代語でも基本形になりうる(ひどいことを言うね)
    • 継続用法の例が少ないこと
      • これを認めると、古代語では「進行中」を表現する手段がないということになってしまうが、これは、中古和文の会話文では進行中を表す必要性自体がなかったものと考えるべきところか
  • 通時変化に関してはやはり、不完成相を表しにくくなったことと、「非過去(現在)」から「非過去(未来)」へと変わった点は認めるべきであって、基本形の無色性を前提として、テイルの発達や非現実を表す形式がなくなったことによって基本形に動きが起こったと考えるのが自然か
  • なお、基本形は「む」や「き」「けり」とは棲み分けがあるが、「ぬ」「つ」と重なりがある(①ロ 終結)ことが、問題として残る

雑記

  • 継続は3日、3ヶ月など3のつく数字が節目と言うが、なんも関係ない5ヶ月目くらいで急にしんどくなってきた

*1:鈴木泰(2009)『古代日本語時間表現の形態論的研究』ひつじ書房

*2:大木一夫(2009)「古代日本語動詞基本形の時間的意味」『国語と国文学』86-11

*3:吉田茂晃(1991)「「大鏡」における時制表現の一特微:時制助動詞のない場合について」『島大国文』20

*4:大木一夫(1997)古代日本語における動詞終止の文と表現意図:テンス・アスペクト的意味を考えるにあたって『日本語の歴史地理構造』明治書院

*5:土岐留美江(2010)『意志表現を中心とした日本語モダリティの通時的研究』ひつじ書房