栗田岳(2010.9)「上代特殊語法攷:「ずは」について」『万葉』207
要点
- 上代特殊語法ズハについて、その特殊性を、否定から離れ得る環境における「不望」の意の前景化にあると考える
前提と問題
- 特殊語法ズハを基本的には仮定条件であると考えた上で、その特殊性について考える
- かくばかり恋ひつつ不有者高山の岩根し枕きて死なましものを(86)
- 仮定条件として見る際、仮定条件としての質をどう規定するかという点について、
- 小柳(2004)は「逆行」とし、山口(1980)は「目的的性格」とした
- 前件後件の順序が表される事態の先後関係と食い違う仮定条件
- 「飲む→乗る」という先後関係に対する「乗るなら飲むな」
- 「死ぬ」が先行すると「恋していない」が生じ(逆行)、だからこそ後件事態「死ぬ」を求める(目的的性格)
- 秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつ不有者(1608)
- 「露と消えるのだろうか」と解すると86のような願望的解釈は採れないし、ズハは逆行・目的的性格ではなくなる
- 「推量型」として区別する向きもあり、包括的な説明が求められる
- また、逆行・目的的性格はズハにしか見られないので、それがなぜ見られるかも明らかにされなければならない
- 小柳説(「言語化される反事実」と「言語化されない事実」の構造)にも従い難い点がある
- 験なきものを不念者一杯の濁れる酒を可飲有良師(飲むべくあるらし)(338)
- 「酒を飲む」という事実を反事実・不望とする必然性がない
濱田説の発展と「不望」
- 本稿の説は、濱田敦説*1の延長にあるので、まずはそこを確認しておく
- 「話者の意識の中に「こんなにいつまでも徒に恋しく思っていたくない」という気持ちがある為に、それが打消の「ず」と なって、現るべからざる「かくばかり恋ひつつあらば」という条件句の中に現れる結果となったものではないかと思う。」という理解
- 「こんな恋をしているのなら」と「ず」を否定の意として取らず、肯定文として読み、望ましくない(不望)点に「ず」が対応しているものと見る考え方
- 実際の条件文においては、肯定(XならばY)は否定(XでなければYでない)を含意しうるという「否定辞を否定以外の意で用いやすい環境」がある
- この否定はことさらに表現する意味がなく、肯定側のみがあれば事足りるのであって、否定辞は「宙に浮くことになる」。これが、ズハがズとありながら否定文を離れ得たことの背景
- 特殊語法ではないズハに以下の3段階を設け、特殊語法との連続を考える
- 単なる否定の段階:仏造るま朱不足者水溜まる池田の朝臣が鼻の上を掘れ(3841)
- 否定かつ、ズの事態(寝ず)が不望という段階:玉くしげみもろの山のさな葛さ不寝者遂にありかつましじ(94)
- ヌカで希求が表されるのもこれと共通する性格か
- 条件文や疑問文という必ずしも肯否が併存する必要のない環境において、ズは否定を離れて不望の意に転ずる
- 否定かつ、ズの上接事態(相見る)が不望という段階:不相見者恋ひざらましを妹を見てもとなかくのみ恋ひばいかにせむ(586)
- 相見たから恋が募ってしまったので、「相見ず」ではなく「相見る」が不望
- 反実仮想の文の仮定条件節は、言語主体の不望の意が表出されやすく、このようにして「否定」から「不望」が前景化したと考える
- ズの上接事態が不望(否定ではない)のが特殊語法で、もともとは上と連続する形で、反実仮想の仮定条件節とセットで現れてきたのではないか
- 特殊語法として確立することで、反実仮想の仮定条件節でないものも現れてくる
- 一時期盛んに使われても、一方で、ズが否定の意を持たないとその存立の基盤が危うくなり、廃れていった(特殊語法だった)のだろう
雑記
- 元号、誰が関わっているんでしょう?