釘貫亨(2016.3)「上代語活用助辞ムの意味配置に関与する統語構造」『万葉』221
要点
- ムの意志・推量の意について、人称ではなく上接語の意志性がその意味の決定に関与することを示す
前提
- 活用助辞(いわゆる助動詞)ムが、ム語尾動詞のうち「精神的心理的意味」を有する語(イサム、ヲシム、アキラム…)から分出されたものと考える(釘貫2014)
- 山田孝雄の「複語尾」の考え方を歴史的に展開し、活用助辞ムの意志・推量に関する意味配置について述べることを目的とする
上代のム
- 「一人称が意志、三人称が推量」というのが一般的な説明だが、人称がムの意味を決定しているのではなく、上接する語と相まって決定されるものと考える
- 動詞・形容詞・形容動詞が上接するが、これらには連続性(ex.ガ格のみを要求する自動詞と形容詞)が認められる
- すなわち、ムの上接述語は、意志的他動詞から状態表示の形容詞に及び、その語群がムの意味に関与していると考える
- ムが意志を表すか推量を表すかは、上接語の意志性の有無が関与すると考える
- 人称と語の種類、意志・推量の分布を見ると、
- 全体として、意志動詞の場合には一人称意志を表し、無意志動詞・形容詞・形容動詞の場合には、動作主が三人称で話者の推量を表す例が多い
- 確かに人称が意味を決定しているようにも見えるが、ムという文法形式が一人称・二人称・三人称のすべての環境に出現し、無意志動詞で意志の文脈的意味を持つ例*1も、一人称で推量の意味が生じる例もある
- このことより、ムの意味を決定する要因としては、人称ではなく上接語の性格が優越的である
- 述語の確定ののちに人称の分布が決まり、人称の制限が生じる
- なお、ムを接した意志動詞は一人称意志に集中するが、無意志動詞は三人称推量への集中度が弱い
基本形と人称
- 一人称意志に集中していた「見る・為・行く」の基本形における人称の現れ方を見ると、基本形の場合にはそのような集中は起きていない
- すなわち、意志動詞は統語規則として一人称以外の動作主を排除しない
- 意志動詞がムを接する場合に顕著に人称制限が起こる理由について、
- 多くの意志動詞において意志性は形態情表示されず、単語内に含意されるだけである
- そこに、精神的心理的意味を表示するムが接続すると、内部に含意されていた意志性が形態として表示されることになり、一人称を強力に要求するのではないか
- 逆に、無意志動詞の場合はもともと含意されない意志性は形態上露呈せず、「叙述する事態に対する話主の精神的な働きがムによって表示され」、それが「推量」と解釈されるのではないか
雑記
- 年度が終わろうとしている、許可した覚えはないのに
*1:過程に関する意志の場合に無意志動詞が意志的意味を持つのはおかしくない(早く忘れよう)ので、こっちに関しては意志の規定の問題だと思う。なお、三人称で意志の意を持つ例として「引く」が挙げられており、CHJで「引く」+「む」を検索した限りでは「ま葛延ふ小野の浅茅を心ゆも人引かめやも我がなけなくに」(2835)の例だと思うのだが、これは推量の意では?三人称主語が意志の意を持てる(*彼が行こう)文脈を知りたい。