近藤泰弘(2019.2)平安時代の敬語の形態論
近藤泰弘(2019.2)「平安時代の敬語の形態論」『日本語学』38-2
問題
- 「敬語動詞の視点の中和」の問題
- おはす・まゐるは非敬語形が行く・来・ありだが、敬語形になるとダイクシスが一見分からなくなる
- 行く・来の持つ方向性の視点と、おはす・まゐるの持つ敬意の視点は一種の相補性を持ち、金水はこれを「敬語動詞による視点中和」とした
- 授受動詞にはダイクティックな普通の敬語中立な動詞がない
- アスペクトにおいて、移動と存在が中和する問題(ありが行く・来と共通の「おはす」になること)についても考える
敬語動詞の形態論
- 移動動詞について、
- 中立の場合、話者が参照点、動作主体がそこから遠ざかるものが「ゆく」、近づくものが「く」
- 謙譲の場合、尊敬するものが参照点、動作主体がそこから遠ざかるものが「まかづ」、近づくものが「まゐる」、もともと近いものが「はべり」
- 尊敬の場合、尊敬するものが参照点とすると、動作主体はそれと一致するので、謙譲のような区別がない(おはす一語しかない)
- この相補性は、敬語を形成する上でどのような現象を引き起こすか?
- 移動動詞に敬語動詞が存在する場合、それのみを用いる
- おはす まゐる まかづ/行きたまふ 行きたてまつる *ありたまふ
- 現代語では「行かれる」「お行きになる」が可能
- 授受動詞の場合はより明瞭で、そもそも非敬語形が存在しない
- すなわち、「古典語では敬語は敬語として独立しており、ダイクシスとは共存できない」わけで、形態論的には、ダイクシス形と敬語補助動詞が連接できないことを意味する
- この連接のあり方を状態遷移図で記述すると、
- 注目すべき点として、
雑記
- かなしい