蔦清行(2004.12)ミの世界
蔦清行(2004.12)「ミの世界」『国語国文』73(12)
要点
- ミ語法のミは「見る」と関連を持ち、
- 原因・理由の意は本質的ではなく、対象についての判断を示す表現形式であった
ミ語法の用字と構文的問題
- ミ語法のミには「見」字が用いられることが多く、
- 一方勿論、動詞「見る」にも「見」の字があてられることが多い
- すなわち、ミ語法のミは、見と関わりを持つものだったのではないか
- ミ語法のミが判断を表す「見る」(海人と見る)に由来すると考えることもできるが、
- そのとき、以下の2点が問題となる
- A[名詞句+ヲ+形容詞語幹]の部分は、(形容詞語幹が述部に立つことはないのに)内容を表す句を形成し得るのか
- B[名詞句+ヲ]は形容詞語幹に対してどのような関係にあるのか
- A
- [名詞+形容詞語幹]による複合語(足速・根白)はその逆よりも少ない
- 主述の関係を構成するために「句」としての意識が強く、複合名詞になりにくかったことがその要因と考えられるが、
- 逆に言えばそれは、形容詞語幹が述部に立つ場合があり得たということである
- 「山高み」の「山高」は名詞ではなく、主述の関係を持つ句で、そこに判断の対象が分析的に示されるようになったのが「山を高み」であると考える(→B)
- B
- 判断を表す「見る」は、判断を句でひとまとまりに表現する無助詞の場合とヲで対象を明確化する(対象ヲ内容ト見る)場合があり、
- 浦無しと見る / 石を玉と見る
- 名詞句~ミと名詞句ヲ~ミも、その関係性と並行的に捉えられる
- よって、ヲは主語ではなく判断の対象を示すと考えた方がよい
- 判断を表す「見る」は、判断を句でひとまとまりに表現する無助詞の場合とヲで対象を明確化する(対象ヲ内容ト見る)場合があり、
意味的な問題
- ミ語法の判断主体が誰かという問題があるが、基本的には主句の主体が判断主体であると考えてよい
- ただし、作歌者が判断を客観的・普遍的なものと考える場合に、「主体の判断」性は薄まり、客観的表現に転ずる(山高み河遠白し)
- ミ語法の種々の用法(のちに原因・理由に一本化)も、「見」の意から説明可能である
- 原因・理由は前句・後句に関係性が読み取られた場合に現れる意味であって本質的なものではなく、
- 「思惟」の意、「状況」の意は、「見」の判断の意から説明される
見の意味の後退
- ミ思フ・ミスは、判断を表すことを明確に示すために分析的になった形式であり、特に情意形容詞に偏るという指摘がある
- これは、情意形容詞自体に主観的判断をあらわす働きが強いために、ミ語法の有無による違いが生まれないためで、
- そのためにミ語法の「見」の意味が形式化し*1、その意味を補うために思フ・スを語尾的に分出したのではないか
- ミ語法が原因・理由に限定されるようになるのは、「見る」ことによる対象把握という方法が、奈良時代から平安時代にかけて大きく後退したためであろう
- 主体の判断を表す「見ゆ」も中古以降に衰退することと関わる
雑記
- ワールド・オブ・ミ
*1:ただ、それ以前のミが見の意を残すのであれば、もう少し構文的に自由な現れ方をしてもよいのではないかという感じはする