新沢典子(2001.12)「集団の声としての「いまは漕ぎ出でな」:願望の終助詞「な」に映る古代和歌史」『名古屋大学国語国文学』89
要点
- 願望のナは主語が単数のときに願望を、複数のときに勧誘を表すとされるが、その定義に当てはまらない例がある。このことについて考える
- 初期万葉・記紀歌謡のナはいわゆる勧誘ではなく、「集団に共通の願望」が示されたものであると考える
- 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今者許藝乞菜(8)
- 歌の場に集団性があるかどうかによって、ナが願望の読みも勧誘の読みも可能になる
- 諸大夫等歌して曰く、…出でて行かな(紀16)は、個人の心情でも勧誘でもなく、「集団共通願望ともいうべきもの」である
- すなわち、ナは(勧誘or願望で捉えられてきたが)単なる願望表現で、主体のあり方が異なるだけ*1
- ナは、個別的動作(e.g. 死ぬ)にも下接するようになることで、個人の意志や願望を表すようになり、助動詞ムの領域に近づいていく
- 勧誘表現は、個人の意志や願望を表せる段階に至って初めて生じる用法であると考える
- 位置が固定的なナよりもムの方が「広く活躍できた」ことがナの消滅と関わると考える
- いざ結びてな(10)→いざむすびてん(古今和歌六帖)となっているのは、ナの消滅にムへの近寄りが起因することの傍証
雑記
- エアロバイク漕ぎながら論文読むの捗ります
*1:でも「いざ闘はな」(紀28)を願望と捉えるのは難しい(願望・勧誘未分化で考える方がよいと思う)