ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

野村剛史(2015.5)通時態から共時態へ:その2(ノダ文・ナリ文の場合)

野村剛史(2015.5)「通時態から共時態へ:その2」『国語国文』84(5).

要点

  • 野村(2013)で主張した「共時態の記述に際する通時的研究の重要性(不可欠性)」について、アスペクト・テンス、ノダ文を事例として扱う(前半は前の記事で)。
  • 「事情文」(説明のノダ)の用法の展開について、その用法がいかに展開されるべきかを述べる。
  • ノダ文の基底に「~は~(の)だ」を認め、「~(の)だ」を「Nだ」相当と見るとき、ノダ文は名詞述語文の側から説明が与えられるべきである。筆者はノダ文の基底が同一性文にあるものと見る。
    • 名詞述語文のタイプに、述定名詞文、指定名詞文、同一性名詞文の3種を認める(三上1953、野村2014)
  • このとき、ノダ文と連体ナリ文には以下の相違が認められる。
    • 現代語のノダ文には「洪水になったのは、上流で大雨が降ったのだ」のような同一的でない事態が現れるが、
    • 連体ナリ文にはそうした例はない(「一事態性の制約」)。
  • 以上のように見るとき、ノダ文の「説明」の機能も、周辺的と見られてきた「換言」を中心に考えるべきである。
    • ナリ文は一事態を「解釈(は)再解釈(なり)」として「再解釈」するもので、
    • ノダ文についても、(本来は一事態的であったが、別事態でもあり得る)「内奥の事情」を再解釈の媒介とすることで、二事態性の「結果―原因」へと広がったものと考えられる
    • 共時的に)中心に近そうな用法からの類似で考えるのではなく、「連鎖の展開が通時的に順序づけられるとしたら、説明の(論理の)展開順序は通時的展開の順序に従うべきである。」

雑記