ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

塚本泰造(2003.3)真淵・宣長の擬古文の作為性:富士谷成章の和文とその「から」「からに」観との比較を通して

塚本泰造(2003.3)「真淵・宣長の擬古文の作為性:富士谷成章和文とその「から」「からに」観との比較を通して」『国語国文学研究』38

要点

  • 宣長のカラは原因・理由を批判的に強調し(塚本2001)、真淵のカラニ・カラハも同様の機能を持つ(塚本2002)
  • この改変は意図的になされたものと考えられるが、成章の和文と比べるとどうだろうか
  • 成章の和文においては、真淵や宣長のような逸脱したカラ・カラニは見られず、伝統的なバ・ユヱニ・ヨリで統一される
    • 成章は俗語のカラ・カラニを意識しつつ(ソヂヤカラ・かざし抄)、いわば潔癖に散文で使わないようにしている
  • あゆひ抄のカラはヨリ家に位置付けられるが、口語訳はヨリハヤなどが当てられており、因果を担うものではない
    • 宣長の遠鏡訳はカラシテ・トソノママ・テカラがあり、事態共起のみならず因果を表すものとしても把握されている
    • さらに宣長には、カラノ・カラナリのような作為のあるカラが少なからずある
  • ラニからニを省いてよい理由を考える
    • 成章にはニの形式性(あってもなくても変わらない)を主張する箇所が見られ(ヅカラ・ヅカラニ、~ミニ・~ミ、ナベニ・ナベ)、
    • カラ・カラニのどちらを典拠とするかと考えたとき、上代に例のあるカラの方を採用するということが考えられる(成章は結局それを行わなかったものの)
  • まとめ、
    • 成章のカラは中古和文に則ったが、真淵・宣長は、表現欲求にふさわしいことばを求めて、古語のカラ・カラニに新しい用法を与えた
    • その作為性は、上代から使われ続けていたことばを再利用することであり*1、因果をより細かに表現し分けようとする「日本語の流れ」が背景に働いている

雑記

  • 11月が半分終わってて怖い

*1:カラハの用法自体は近松にもあるから、俗語との混淆を見出してもよいかもしれない