北原保雄・大倉浩(1997)「『狂言記外五十番』について」『狂言記外五十番の研究』勉誠社*1
要点
- 狂言記他3種と性格の異なる外五十番と、他3種の関係について
狂言記の刊行と性格
- 以下の順に刊行されている
- 特筆すべきこととして、
- 外五十番と続狂言記は一連の企画のようにも考えられるが、それぞれ独立したものと見るべき
- 正篇・続・拾遺はのちに再刊されるが、外五十番がセットとなった事実は認められず、現存するものも少ない
- 正篇~拾遺まで70年開きがあるにもかかわらず体裁が変化しなかったのは、正篇や続の再摺が続いたという事情による
- 池田廣司説による狂言記の位置付けは以下の通り
- しかし、一系統の台本に拠るだけでは五十曲を集めることはできないだろうし、「手を尽くして様々な狂言台本が集められて出版されたものと考えたほうがよい」
外五十番と続狂言記
- 外は元禄13年5月、続は元禄13年9月の刊記であり、ともに正篇に倣ったのは確かだが、両者の関係がはっきりしない
- しかし、重複がないのでAは採れないし、
- 相違が多すぎるのでBも採れない
- 『続狂言記の研究』ではCを想定したが、それを発展させ、Dを想定する
- すなわち、横本になる前の万治3版正篇を踏襲したのが外、元禄12版正篇を踏襲したのが続ではないか(以下の理由3点)
- 版型:外は半紙版(寛文版と同様)、続は横本(元禄版と同様)
- 挿絵:外は各曲に挿絵がある(万治版・寛文版と同様)、続は一曲おきに挿絵がある(元禄版と同様)
- 識語:外は識語があり、ほぼ万治版正篇と同様、続には識語はない
- 外と続の書肆は共通しないが、元禄版正篇の書肆3人のうちの2人が外の書肆、1人が続の書肆である
- 元禄版の書肆がたもとを分って競合して刊行したのではないか
- 名称についても、四種が一貫した企画でないことを示す
- 底本については省略
- なお、明治以降においても外五十番は他3種と別扱いされている
雑記
- いい序文である
私が筑波大学の大学院で初めて狂言記を取り上げたのは、確か昭和五十五年のことであるが、大倉君はその時の院生である。大倉君は「狂言記」を課題として研究を進める傍ら、『狂言記の研究』の「本文篇」「索引篇」の作成を実質的にほぼ完遂したのだった。『狂言記拾遺の研究』の共著者吉見孝夫君も、その授業に出席していた院生である。そしてもう―つの『続狂言記の研究』の共著者小林賢次君は、私の院生時代からの友人であり、最も信頼する真摯な研究者である。私は、ほんとうによき共著者に恵まれている、とつくづく思う。
*1:序文によれば、「今回は、「解説篇」も新しいところはほとんどすべて大倉君の研究成果によるもの」