ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

青木博史(2018.3)非変化の「なる」の史的展開

青木博史(2018.3)「非変化の「なる」の史的展開」『国語語彙史の研究』37

  • 計算的推論を表す「非変化」の「なる」の史的展開について
    • このあたりは葛飾区になる
    • 三上の枠組みでは「かみつく」は他動詞になる
  • 併せて、「対人的行為」を表す「非変化」の「なる」について
    • お手洗いは階段を上がった二階になります。

計算的推論の「なる」

  • 中古には「になる」は実質的・形式的両方用いられるが、「となる」はほとんど実質的用法(鈴木1975)*1
    • この山にすむ事、八年になりぬ(うつほ)
    • この「形式的用法」は非変化の「なる」と重なる部分がある
  • 非変化の「なる」に関して佐藤(2005)*2
    • 「計算的推論のナル:話者が「私一個人の判断ではなく、あるルールに従って客観的に推論すると必然的に~との結論に至る」という述べ方をする。現実世界の動的プロセスではなく、推論の動的プロセスについて述べるものである。」
  • 「現実世界」「推論世界」の見方で捉え直すと、
    • いまはみな古歌になりたることなり。(大和)*3
    • 抽象的概念を表すもののみ現れる
    • 時間表現やぬ・にけり・けりなどと共起する点で、(主体そのものの変化ではなく)判断主体の認識の「変化」を表していると言える
  • 中世・近世前期にもあまり例がない
    • それもいつわりになるが、なんとしてよからふぞ(虎明本・武悪)
  • 近世後期に増えるが、これもまだ「計算的推論」ではない(判断主体に基づく事物の変化)
    • そのほうハ廿日ぶりになるといへば、(軽口耳過宝[1742])
    • わたしらが中つせへのおみきが達者で居ると、てふどあの子と同年になりやす。(酩酊気質[1806])
    • コピュラ相当で用いられるという変化あり
  • 近代に「客観的推論の結果」のニュアンスで用いられる
    • ドウいふ訳で面白いと思ふと云ふことは哲學上の問題になる。(太陽1901-4)
    • 「ことになる」の例が多い
      • コピュラ相当で用いられる。「のだ」はそぐわないので、コト名詞句によって客観化していると考える

対人的行為の「なる」

  • 最近生まれた用法(一万円になります)
  • 佐藤は計算的推論の「なる」からの直接的な派生とは見ないが、派生と見たほうがよい
    • コピュラと置き換え可能な「になる」を、「です」に適用することで、「になります」としている
    • なので、計算的推論の成立は近代ではなく、コピュラ相当で用いられるようになった近世以降と見ておく
  • 展望として、
    • 非情の受身、所有文はいずれも翻訳を契機とした「客観化」だが、この2つの事例は異なる

*1:鈴木泰(1975)「中古に於ける動詞「ナル」の用法と助詞「ニ・ト」の相関」『国語と国文学』52-2

*2:佐藤琢三(2005)『自動詞文と他動詞文の意味論』笠間書院

*3:変化の解釈も有りうるとは述べているが「曖昧だから非変化にも転じ得た」という説明は変化後の目で見ている感あり。今と昔の対比として、「(昔は古歌ではなかったが)今は古い歌になってしまった」のだから、これは「変化」の例として見ておいたほうがよいと思う。