川島拓馬(2018.12)「意志表現「気だ」の特徴とその史的変遷:「つもりだ」と比較して」『国語と国文学』95-12
要点
- 意志表現「気だ」について、
- 現代語においてどのような特徴があるか
- 歴史的展開
- つもりだとの比較
現代語における「気だ」
- 第三者の意志を表し、1人称主語は否定文の場合のみ可とされる(2.1)
- 「気」は起こる、なる、なくなる、失せるなど、コピュラでは表せない意味を後続させて意志を表すことができる
- 「気」は「当該の行動をとろうとする意志の存在」について述べるものであり、大多数が意志を表す
- 敵はもう勝った気でいる(意志ではない)
- 「つもり」との異なりとして、
- 「気」そのものが多様な意味を持つ一方で、コピュラを伴うと意志用法になる
歴史的展開
- 土岐の「近世前期にはない」という指摘とは異なり、以下の例が見出される*1
- 忠太兵衛が討たるれば舅の敵を討つ気よな(鑓の権三重帷子)
- 嫁入する気は微塵もない(五十年忌歌念仏)
- 近世後期、明治も同様で、意志用法が漸増
- 述部での「気」の使用が意志表現と強く結びつく傾向
- 肯定形の「気」は現代語において話し手の意志を表さないが、以下のような例あり
- おれも今二十だに若くんばお対手といふ気だが、年老ては埒は明ねへ(浮世床)
- 「つもりだ」が一人称の意志を表す一方で、「気だ」が三人称意志に傾いていったと考えられる
- 一方、否定形の「気はない」が一人称の意志を表すのは、「つもりはない」との時間的距離が、棲み分けの必然性を生まなかったためか
- 「つもりはない」は「つもりだ」の確立から100年近く遅れて現れる
- なお、一人称意志の「気だ」は現代語においては多く「気でいる」に偏り、言い切りに制約がある様子
つもりだとの異なり
- 名詞そのものの自由度
- 「つもり」はほぼ「つもりだ」、「気」はそうでもない
- コピュラを伴った場合の用法差
- 「信念」にあたるものが「気」は少ない
- すなわち、「つもり」には無意志表現が一定数前接するが、「気」はそうではない
- 意志表現への特化度合いがより高いのは「気」の方
- 肯定・否定の成立
- つもりはない:つもりだ→つもりの分出→つもりはない
- 気はない:気だ/気はない
- こうした異なりは、もとの名詞の意味によってもたらされるもの
雑記
- このニュースがずるすぎて笑ってたら
- 類似事例がすでにあった
*1:それ以前に虎明本に「まへのごとく、いるといふきで、みみをよせてきく、」の例があり、このあたりからの意味拡張であったために当初は人称制限がなかったのではないか。成立事情についても知りたかった。