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言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

吉井健(2018.6)「結果的表現」から見た上代・中古の可能

吉井健(2018.6)「「結果的表現」から見た上代・中古の可能」『井手至博士追悼 萬葉語文研究 特別集』和泉書院

ユ・ラユ、ル・ラル

  • ユ・ラユの場合、前接動詞は忘る・取る・寝のみで、否定を伴う例ばかり
  • 平安のル・ラルも同様
    • 肯定可能も、「見おろさるる」は当該行為が実現しており、自発としての解釈は排除できない
    • 吉田(2013)の既実現可能の考え方と平行的

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結果的表現と可能

  • 「住めば住みぬる」の例は、「「住めた」という意に見る方がしつくりすると思われるが、これは、住むことができ、その結果として住んでいることを表している言い方」(佐伯1958)*1で、結果を表す事実的な表現のうちに可能の意が発現する、「結果的表現」として捉えられる
    • これも否定で現れるものが多い
  • 結果的表現によって既実現可能の意が表されることに関して、
    • 仁科(2003)*2上代運動動詞について、動作・過程の継続(うぐひす鳴くも)、変化結果の継続(浅茅色付く)という不完成相を表す、現代語との相違を指摘
    • ほか、動的述語性が現代語に比べて弱いことも指摘される
      • 現代語では、動詞を意図成就「デキタ」の形にしないと、「意図どおりに動作完成が実現する」というナ「ル」的表現にならないが、古典語では「ツ」「ヌ」により動作の完結や変化の完成に焦点をあてれば「ナル」的表現になりうるということであろう。(鈴木2009)*3
  • 現代語の否定は、意志の発動も含めた全体を否定するので「意図的にしない」意が強いが、「君には逢はず」はそうではない(行為の意志の発動まで否定していない)。このことから考えると、「古典語の意志的動詞では、現代語動詞に比べて意志との結束性が緩やかなのではないか」
    • 吉田(2011)*4のタメニ構文の「Vムタメニ→Vタメニ」の分析も、ムの領域に無標形が進出したことを示す
  • 以上、可能の含意がある場合には以下の形式が見られる
  • すなわち、既実現可能は定まった形式を持つわけではない
  • 一方で、実現と離れた可能も、「Vものならば」などの反実仮想的な表現や、ム・マシ・ベシに現れる
  • これらのあり方は、古代語における可能という意味領域の輪郭の乏しさを示すものと考えられる

*1:旧大系古今集解説

*2:仁科明(2003)「「名札性」と「定述語性」:万葉梨運動動詞の終止・連体形終止」『国語と国文学』80-3

*3:鈴木泰(2009)『古代日本語時間表現の形態論的研究』ひつじ書房

*4:吉田永弘(2011)「タメニ構文の変遷:ムの時代から無標の時代ヘ」青木博史編『日本語文法の歴史と変化』くろしお出版