吉井健(2002.3)「平安時代における可能・不可能の不均衡の問題をめぐって」『文林(神戸松蔭女子学院大)』36
要点
- 中古の可能表現は否定(不可能)の例がほとんどで、肯定の例は少ない
- 渋谷(1993)は、文献・方言・言語変化(・調査のしやすさ)において否定が優勢であると整理するが、文献上の偏りは著しく、他のものとは次元が異なるのではないか
- 自発と可能の差異を意志性の前提の有無に求めるとき、中古のラル形式の可能表現の例は、(1)「見る」に関する複合語に偏る
- 自発とも可能とも取れる例で、「見る」という感覚の動詞の特徴によるところが大きい
- 「見る」以外に、(2)連体修飾節の場合(かぞへらるる心ならひ)にも可能の読みができることが多く、これも当該行為の実現の如何が問われないことによって支えられる
- その他、(3)反実仮想の帰結に使われる場合(知られまし世の憂さ)もあるが、仮定の世界での実現が想定され、「条件が整えば当該行為が行われる」ことを示すものであることによる
- 無標の動詞であっても、モノナラバ節や動作過程を取り出しにくい意志動詞の否定、仮定条件の帰結に使われると、上と同様の理由で可能の意味がでやすい
- ラルが可能を表す場合は(アクチュアルでなくなるような)一定の構文的環境しかないが、無標の場合も同様の環境において可能の意を見出すことができるため、ラルそのものが可能を表したとは考えにくい
- 不可能もまた、自発の否定と区分がしがたく、不可能の例があるからと言ってラルが可能を表すことの保証にもならない
雑記
- これ、Yoのことやんね…??かわいそさが過ぎて逆に笑ってしまった
わたしはわ○だ大学に入りたくて勉強してたんですが、偶然出会った日本語学の本に惹かれて日本語学に興味をもって、その著者である教授がいる大学で勉強したいと思って想いきってだ○とうぶ○か大学をAOで受けました。受かってよかったです。正直春から不安です。でも私は勉強しに行くので。
— 塩オニギリ (@shioonigirin_2) 2020年3月18日