ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

衣畑智秀(2004.12)古代語・現代語の「逆接」:古代語のトモ・ドモによる意味対立を中心に

衣畑智秀(2004.12)「古代語・現代語の「逆接」:古代語のトモ・ドモによる意味対立を中心に」『語文』83

要点

  • 古代語で、トモは仮定条件、ドモは恒常条件と確定条件を表し、現代語で、テモは仮定条件・恒常条件、ケドは確定条件を表す。このことについて考える
  • 現代語のテモとケドは情報の処理単位によって形式が分化し(衣畑2005)、「仮定・確定といった意味的な分類には無頓着」である
    • テモは前件と後件が一つの処理単位で、ケドは前件と後件が独立した処理単位である(南1993のテモはB類・ケドはC類とする分類と対応)
    • 一方で、古代語のドモは連体節内(??呼ばないけど来てくれた人たち)にも現れるし、B類の用法も持つ
  • トモと仮定条件について考える
    • トモが「現実の事態」でも用いられる(大わだ淀むとも:万31)ことを「事実を仮定にしている」「強調」などと説明することがあるが、「テモが使われている」ことに基づくものであり、循環論法である
    • 「仮定条件」の指す範囲を考えるために、以下(5)のような「情報の仮定可能性」のスケールを設定し、
    • f:id:ronbun_yomu:20200722180334p:plain
      p.52
    • また、後件の要件として、前件の仮定から得られた情報でなければならない(前件の仮定の推論と無関係に真であるということはない)という制約があることを確認しておく
  • このように考えたとき、トモの前件は「仮定」の範囲に収まると考えられる
    • 言問はぬ木にはありとも(811)は前件が「聞き手」に属するが、これは「事実を聞き手を通して間接的に構成する」ことで仮定的に述べるもの
    • 「事実」とされる「大わだ淀む」も、擬人的な例かもしれず、どの例も後件は全て推論の結果である
  • ドモは恒常・確定とされるが、曖昧である
    • 巡り見れど飽かずけり(4049)はテモ相当だが一回的で「恒常」ではなく、
    • 梓弓引かばまにまに寄らめども後の心を知りかてぬかも(98)も「事実」という意味での「確定」ではない
    • ドモは前件と後件の対立を表しただけで、仮定・恒常・確定といった意味についても無標であったと考える
      • このように考えることで、「タトヒ戒ヲヤブレドモ」(三宝絵)のような例*1も、有標形式との対立が弱まったことによって説明可能

雑記

  • 毎週講義作ってるときはまだ無限に先があるように感じるのに、いつの間にか半年が終わっているのはなぜなのか

*1:「中世に見られる次のような例」としているが…?