ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

福島直恭(2020.3)後期江戸語の行為要求表現方式「ねえ」に関する一考察

福島直恭(2020.3)「後期江戸語の行為要求表現方式「ねえ」に関する一考察」『学習院女子大学紀要』22

要点

  • 江戸語で行為要求に使われるネエが、正面切って扱われたことはなかった
    • 機能と成立過程「にしか」関心がなかったのは問題である
  • 江戸洒落本・滑稽本人情本の調査、
    • ネエによる行為要求は、洒落本<滑稽本人情本の順で増え、
    • 使用者の性別の制限(洒落本ではすべて男性)もなくなる
  • 他の行為要求表現と比較すると、やはり人情本での使用が増えている(人情本ではそもそもの命令形の命令が減っている)
  • ネエを支えた要因、
    • ナサレとナサイ・ナセエの場合、二重母音VS長母音という対立の中でナサイ・ナセエが ai と eː の併存状態の一環として位置付けられたことが、ナサイが標準的になれた要因であると考えた(福島2016)が、
    • ネエの場合はその元となるはずのナイは文献に現れないので、ナがその対立相手であったと考える
      • 「いわば擬似的な連接母音形式と長母音形式の関係ともいえるものだったのではないか」(p.100)
  • ナとネエについて、
    • ネエとナは、話者によって相補的な分布を示すことがある
    • ナはナサイの省略であるが、ナサイはナセエとの「文体的対立関係を維持する方が重要であった」し、
    • ネエは文体的対立を示すはずのナイの使用が広がっていなかったので、ナ・ネエのどちらも不安定な非標準形式であると言え、
    • この2つが擬似的なペアを形成することでそれぞれの存在意義を得て、ポジション維持することができたのではないか*1
  • その後、
    • ナは現代語にも残るが、ネエは残らない(ただし、ナの使用者層は異なる)
    • なお、ネエの記述は「権威のある言語体系にかかわる言語事象に直接関与する要素とは考えにくい」ために軽視されているものと思われるが、そのバイアスは取り除かれるべきである*2

雑記

  • 言いたいことが先行しないようにするためには、言いたいことを一旦なくすのがいいのかな
  • 買った本普通に読み進めてるんですが、打ち込んでいくのがめんどくさいので yomu にするのはやめました…
  • しばらく休んでます kaku方が手一杯で

*1:必ずしも組として排他的なペアを構成しなくても良いのでは?ある語が体系Aと体系Bに跨っていたとして、困ることがあるんだろうか

*2:日本語史研究がその「中央語の視座」側からしか行われるという傾向にあるとして、「ネエの研究がなかったこと」は必ずしも日本語史研究全体が中央語の視座からしか行われてこなかったことの根拠にはならないだろう。そこだけ取り立てて「これまでの研究は」と言われても、果たしてそうなんかな…と思ってしまう。というのと、あと、福島2016あたりから増訂江戸言葉を湯澤1991としているのは直したほうがよいのではないか、1991まで生きてたらよかったのに。