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言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

矢島正浩(2017.11)中央語におけるナラバ節の用法変化

矢島正浩(2017.11)「中央語におけるナラバ節の用法変化」有田節子編『日本語条件文の諸相:地理的変異と歴史的変遷』くろしお出版

  • 矢島(2017)による、「ナラバ」「タラバ」に関する小林(1996)説のまとめと問題提起

    • 完了性仮定条件:未来時における動作作用の完了の仮定、飲んだら乗るな
    • 非完了性仮定条件:事実成立などの、完了性以外の仮定、乗るなら飲むな
      • 「活用語+ナラバ」は非完了性仮定、「タラバ」は完了性仮定がそれぞれ 本来の性質である。
      • 中世にはナラバが「完了性仮定の表現に大きく進出」する。
      • ナラバは「室町時代以降、完了性仮定の表現形式「タラバ」が発達するとともに、次第に完了性仮定としての用法を失いだし、本来の非完了性の表現形式として」用いられる。
      • 近世以降においては、「ナラバ」の完了性仮定としての用法は、〈完了+仮定〉という構成をとる「タナラバ」にもっぱら託されるようになる。
    • 本来的な用法が時代を超えて認識されているのに、混乱しているのは変、混乱についての説明もない
    • ナラバがなぜ完了性も表せたか、いつ、ナラVSタラの住み分けを完成させるかについて、別のアプローチをとる
      • 前件の時間性を検証する
      • ナラ的な意味(事実の仮定)かタラ的な意味(継起的な仮定)かで弁別する
  • Vナラバ(論文ではスルナラバ)

    • 中古・中世前期:準体句を受けたことにより、ナラ・タラいずれの意味も持つ他、「過去ナラ」もある
      • ナラ的:心の通ふならば、いかにながめの空ももの忘れしはべらむ(源氏)
      • タラ的:かく沈むならば、かならずこの報いあり(源氏)
      • 過去ナラ:御祈願のことあつて遊ばさるるならば、御願成就すべからず(太平記
      • いずれも表せたこと、過去ナラがいけたことは、準体句を承けていたことにより説明される
        • 明日雨なら(=雨が降るなら/雨が降ったら)中止にしよう
    • 中世末期・近世中期:古代語が継続される、非特定時を受けるものがあるが、これはナラ・タラ特定の問題ではない
      • こりや男持ならたった一人持つものしや。(大経師昔暦)
    • 近世後期以降:タラ用法ではタラバが安定、「過去ナラバ」やタラが見られない、現代に近い
  • タルナラバ

    • 中古・中世前期:現在ナラの意でのみ用いられる(タリの性質を反映)
      • 男のうち入り来たるならばこそは、こはいかなることぞとも参り寄らめ(源氏)
    • 中世末期・近世中期:タリ(>タル)>タと、Perfect>Tenseの変化に伴い、「たならば」の形式と、未来・タラ用法を獲得
      • モシコノコトガモレ聞コエタナラバ、行綱マヅ失ワレウズ(天草平家・未来タラ)
      • 子力騎将トシテ淡ト戦タナラハ、其父ハ高祖ノ功臣テハアリサウモナ イソ(史記抄・過去ナラで過去の仮定)
      • この手間でこれ程のよいことをしたならば、親の身ではどれほどの自 慢であらふと思ふぞ(心中二枚絵草紙・過去ナラ・反事実)
    • 近世後期以降:文体的偏りが顕著に
  • どうまとめるか

    • ナラバのナラ用法は近世後期以降、「降るなら/降ったなら」のようにVナラバ・Vタナラバで時制対立する、完全時制節性を獲得
    • Vナラバが近世後期にタラ用法を担わなくなる一方で、タルナラバ>タナラバのタラ用法は未来・タラ用法を担うようになる
      • タラ用法を表すようになるのは「後件に先行して前件が起こることを表すということ」で、「ナラバ節がタラ用法を担うタルナラバにおいては、主節時以前を表す「た」、すなわち相対テンスを表す時制表示としての機能が明確化している」(p,134)
    • 近世後期に準体助詞ノが広がるが、タラ用法のVナラバはノナラバを取ることができない、ノナラバの定着とVナラバの用法の安定は時期が重なる
  • 「おわりに」がわかりやすいのでそのまま引用

ナラバ節は近世後期に至り、タラ用法の後退によってようやくナラ用法への整理が進む。

同時にタルナラバが時制節を構成するものとしての性格を明確にし、

さらにはノナラバによる認識的条件文専用形式の発生・定浩も同時に促される。

近世後期は、現代標準語のナラバ節の方法を確立した時期として特筆すべき段階に当たると言えるのである。

気になること

  • Vナラバの中古・中世の項は「名詞を受けるものが複数解釈可能なので、名詞に準ずる準体句を受けるものは複数解釈可能であった」と、少し循環論法っぽい感じがする、とすると、なぜ名詞を受ける場合には複数解釈が可能だったのか
    • 関連してNナラバ、注5「反事実的用法は拾いやすい」の類例
      • おぼつかな今日は子の日か海女ならば海松をだに引かましものを(土左)
      • 思ふ人雨と降りくるものならばわがもる床はかへさざらまし(大和)
      • 変らぬ御ありさまならば、たづねきこえさせたまふべき御心ざしも絶えずなむおはしますめるかし。(源氏)
  • ノナラバの成立にナラバの用法安定(タラ用法の衰退)を挙げるが、ナラバ・ノナラバの対立のための分化と考えると順序が逆になる(ナラ的意味に「安定した」と見るのはあくまでも現代語目線だし)、例見ないとなんとも言えないけど