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言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

山本真吾(2018.4)鎌倉時代の言語規範に関する一考察:「古」なるものへの意識をめぐる

山本真吾(2018.4)「鎌倉時代の言語規範に関する一考察:「古」なるものへの意識をめぐる」藤田保幸編『言語文化の中世』和泉書院*1

要点

  • 前後の時代と画される(引き裂かれる)「中世」が、国語意識史の中でどのように捉えられるかを、「古人」のあり方から見ていく
  • 情としては古人の説に依拠するが、処理は合理的、という二面性を持つ

中世の「古人」

  • 先人の説を正しいものとして依拠し、自説の正当性を述べる際に用いられる
  • 下官集:仮名遣いに関して「況亦当世之人所書文字之狼藉、過于古人之所用来、心中恨之」
    • 定家仮名遣いの「お/を」は(旧則に倣わない)合理性志向
    • 一方で「え・へ・ゑ」「ひ・ゐ・い」」は故実・古代志向
  • 徒然草:くちをしとぞ、古き人はおほせられし(22)
  • 説話集:これ古人の伝るところなり(古今著聞集)など
  • 軍記:古人ノ被申候シハ、(延慶本平家)など
  • 歌合:古き人は詠み侍らまし。(建仁元年千五百番)
  • 歌論:古人云、…(無名抄)など

中古の「古人」

  • 単に古老・古参の意で、むしろ批判的な語感すらある
    • はゝいみじかりしこだいの人にて、(更級)
    • あやしきふる人にこそあれ。(源氏・行幸

兼好法師の言語規範

徒然草160段より、

門に額掛るを打つといふは、よからぬにや。

勘解由少路の二品禅門は、「額掛る」との給ひき。

「見物の桟敷打つ」などもよからぬにや。

「平張打つ」などは、常の事なり。「桟敷構ふる」など也。

護摩焚く」と言ふも悪し。「修する」「護摩する」など也。

「行法も、法の字を澄みて言ふ、悪し。濁て」と、清閑寺の僧正仰せられき。

常に言ふことに、かゝることのみ多し。

  • どういう規範意識
    • 動詞と目的語の対応
      • ×門打つ → ○門掛る
      • ×桟敷打つ → ○桟敷構ふる
      • ×護摩焚く → ○護摩修する/護摩する
    • 「行法」×ギヤウホウ(澄みて言ふ) → ○ギヤウボウ
  • しかし実際は、
    • 「額打つ」は平安からある
    • 「桟敷打つ」も平安からある
    • 「行法」もむしろ澄む例がある
  • よって「かゝること」は「古い言い方から外れる」ことではなく、「当時の基本的運用法から外れること」

まとめ

  • 「情としては古語憧憬を謳い、尚古的国語観に立つが、理では現実的処理をするほかないと判断する。」(p.85)
  • 「実際には、目の前の現実を見て合理的な処理をするにもかかわらず、「古人」の言説に依拠する態度を《装う》」(p.86)
  • 「古代志向」は言葉に表現されやすいが、実態はそうではない

気になること

  • 「(場合によっては実情からずれた)規範意識」と「前代による権威付け」という見方をすれば、その態度自体は中世特有のものでもない気がする
    • 「古人」の言葉をありがたがるものとしては例えば、
      • 君君たらずといへども臣をもつて臣たりといふ、古人のことばあり、たゞおぼしめしとまり給へ』と申て候へば(御伽草子・三人法師)
      • 「諸芸を鍛練する事、それ〴〵の家業の外は、ふかう其道に入る事なかれ」と、古人の言葉ひとつもたがふ事なし。(西鶴織留)
    • 言語意識に関しても、
      • 定家卿天福の伊勢物語にも、あぶな〳〵と云声をさゝれたり(かたこと85)
      • 鄙言の、何ちふことだの、角ちふことだのといふのも、ちふとは「といふ」といふ詞を詰たので、古い詞だから頼もしいとお云だよ(浮世風呂二編上)
      • 行べい帰るべいは、可行可帰といふ詞で、いまでも万葉とやらの歌よみは、べい詞を遣ふさうさ。(浮世風呂二編上)
    • 現代では例えば、
      • 「全然+肯定」を「明治以前にはあったからOK」とする態度*2
      • 歴史的仮名遣い(旧仮名クラスタ)の過剰修正(ござゐます)*3
  • 平安くらいだと拠る「前代」がなかった(奈良人に失礼?)とすれば、この「前代に依拠」という近代的意識の芽生えを中世の特質と見るのがよい?

*1:発表月は奥書による

*2:現代的用法として「全然+否定」が規範的になってしまった、と見る場合

*3:こんなページもある:かなづかひ警察出動!