信太知子(2006.3)衰退期の連体形準体法と準体助詞「の」:句構造の観点から
信太知子(2006.3)「衰退期の連体形準体法と準体助詞「の」:句構造の観点から」『神女大国文』
要点
- 信太(1976)の再検討
信太(1976)
- 準体ノの起源を「我がの」の格助詞+ノに求め、
- 「我がの」の発生が中古、活用語+ノの発生が中世末~近世初頭という時間的なズレについては、
- 当初は準体法の機能を形式名詞が補償していたが、準体法衰退が決定的になった時期にノが成立したものと考える
前提
- 連体形による体言相当句を以下の6種類に分類する
- 同一名詞型:
- 連体:赤い花を の:花の赤いの 準体:花の赤きを
- 内容節型:
- 連体:行くことを の:行くのを 準体:行くを
連体形準体法の衰退とノの成立
- 衰退の時期を、以下表より、中世末から近世初頭と考える
- 中古から中世にかけて次第に衰退、天草版で急激に減少、明治以降は現代とほぼ同様
- ロドリゲス大文典には、準体ノの記事はなく、「不定法をつくる助辞」に連体形準体が上品な言い方である旨の記述がある
- すなわち、俗語的なところではノが使用され得る状況が生じていた
- 現代語に残る準体には、主語(するがいい)、ニ(に違いない、につれて)、ト(と同時に)、ヨリ、述語成分などに偏り、型としてはほぼ内容節型。これは、衰退の結果を示したものであり、
- 実際、同一名詞型よりも内容節型の準体率定家の傾向が著しい
- 内容節型の場合は連体修飾句そのものに重点があり、被修飾体言がそれほど重要でないのに対し、同一名詞型の主名詞は連体句中の一成分となり得、文脈の支えなしには準体にはなり得ないことによる
- また、準体句がどのような文成分になるかという観点で見ても、体言性を保持しにくい述語成分の衰退が早い
- 実際、同一名詞型よりも内容節型の準体率定家の傾向が著しい
- ノの成立について、ノが使用開始されたと思しい近世初頭以降の使用状況を見ると、
- 近世初期のノの例は口頭語的性格の資料には見られない
- 型による使用状況にはそれほど差がなく、内容節型も当時かなり用いられていた蓋然性は高い(すなわち、内容節型でノの必要度が高かったという傾向に合致)
- 19C以降に同一名詞型でノの使用率が増えるのも同様の理由によるものだろう
- 以上より、連体形準体法の衰退は緩やかで、中世末から近世初頭にノが成立し、天明期頃にはかなり定着、と見る
- 方言のトについては彦坂(2005)同様、引用のトと考える
- 中央語でノが定着したのは、形式体言では不十分であったこと、主格にガ、連体格にノという機能分担が行われたこと、ガが主格以外に接続助詞の機能も有したことが要因か
- 準体法衰退の要因には、やはり終止形連体形の合一を想定する(→信太2007)
- 準体句そのままでは体言相当句と文相当句との区別が困難であったため
注
- 注7、準体法の補償としてはノだけではなく連用形+ゴト、サニが想定され(ただし定着せず、ノに至る)、形式名詞を含む接続助詞や文末詞も準体からノへの過程に位置づけて検討することの必要性を述べる
雑記
- 学会の時期、ダイエットに向いていない…