小林賢次(1995.2)「「(言わ)んばかり」考:慣用表現の成立と展開」『日本語研究』15
問題
- ンバカリのンを打消のヌとして捉える立場と、推量のムとして捉える立場がある(前稿)が、どちらが妥当か
- 湯沢説は、当初はムバカリであったが、江戸時代には既に打消のヌと考えられるようになった(ヌバカリ・ナイバカリの例あり)と見る
- 此島説は、源氏の「泣きぬばかりにいへば」を引き、「死なないだけ」(ほぼ死んでる)の意と捉える
ヌバカリ説
- 狂言台本、抄物にヌバカリの例があり、江戸時代初期にかけて特に「言はぬばかり」が慣用的に用いられ始めていたことが分かる
- 近世中期に至って、「言う」以外の動詞も取るようになる
- これらは全て、「しないだけで、したと同様の」の意
- これを遡って行くと、
- ということで、問題となるのはヌが打消か完了かということになるが、ここで平家の「腹の内をあけて見ずといふばかりに」などの「ずといふばかり」に着目すれば、打消であると考えられる
- 明治以降においてもヌバカリの例が目立ち、ンバカリ・ナイバカリも見られ、明らかに打消の意識で用いられている
- この解釈が揺れる背景にはム>ンとヌ>ンの同音衝突が想定される
- ム>ンは中古、ヌ>ンは室町頃生じたもので、
- 仮名草子にはム・ンと書くべきところをヌと書いた例がある
- 共通するンを媒介としてヌとムが混同するのは近世初期にも生じており、梵舜本沙石集にも同様の例がある
- 慣用表現において、連体のムは「あらん限り」「せんかた無し」など、ンの形を取るが、打消のヌは「見知らぬ人」「あらぬ疑い」のようにヌのまま用いられるため、連体法のンがヌの意味を取りにくく、ンバカリが推量のように解釈されてしまうのであろう