ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

中川祐治(2001.3)中世末期における指定辞「ぢゃ」の構文的機能について:『天草版平家物語』と原拠本『平家物語』との比較を手がかりに

中川祐治(2001.3)「中世末期における指定辞「ぢゃ」の構文的機能について:『天草版平家物語』と原拠本『平家物語』との比較を手がかりに」『国文学攷』169.

要点

  • 平家の対照に基づいて、ヂャの機能について考える
  • ヂャは登場人物の会話・心情、喜一の相づち、評語・解説に表れるので、対話的要素を持ち、仁田の「伝達のモダリティ」に該当すると考える*1
  • ヂャの対応箇所を調べると、以下の通り

p.20

  • 平叙文と交替する場合(ア~エ)、断定・推量の判断や、知識表明の判断判定文として機能し、「比較的客観的な指定辞としての機能」を有する(このとき、聞き手の存在は任意)
  • 特に形容詞文・動詞文の場合、Nヂャに交替することが多く、聞き手に対する「説明のモダリティ」としても用いられることが分かる
  • 感嘆文・係り結び文と交替することがある(達者カナ→達者ぢゃ)
    • 「感嘆のモダリティ」として機能するが、喚体句ではないので「判断のモダリティ」性も持つ
  • 応答文を代替する「そのおことぢゃ」は、これ全体で「応答のモダリティ」*2として機能する

雑記

  • 逆になんモダ論においてモダリティに含まれないものが気になってきた
    • 「話し手の立場からした、言表事態に対する把握のし方」だからダイクシスは当然モダリティ
    • この勢いで、全てをモダリティにしたい

*1:言いたいこと分かるけど、何には現れないのかを示さないとそうは言えない

*2:なんでもモダリティがなんでもすぎる