大鹿薫久(2007.4)「連体なり」の性格:源氏物語の文章を通して
大鹿薫久(2007.4)「「連体なり」の性格:源氏物語の文章を通して」加藤昌嘉(編)『講座源氏物語研究 第八巻 源氏物語のことばと表現』おうふう.*1
要点
- 連体ナリが以下の性質を持つことに基づいて、その意味と、連体ナリの性格について考える
- ①ナリ∅(ナリによる終止)、②ナラム・ナリケム*2(・ナルラム・ナラジ)、③ナナリが純粋な地の文に現れないのに対して、
- ナルベシ、ナメリ、ナリケリは地の文にも現れる
- その点で、田島の例外処理は正確でない
- 地の文・非地の文は、以下のような規定による
- 地の文:発話者自らが関与し得ない、当事者性を持ち得ない世界を描く文
- 非地の文:発話者が関与し得る世界、そこに出来する出来事や状況の当事者でもありうる世界を描く文…会話文・心内語・消息文と草紙地(①②③はこれにしか現れない)
- 連体ナリは、(北原・高山を援用・修正すれば)コピュラとして「コトの構成」を果たすものである
- 例:何人ならむと問へば、「明石の浦より、前の守新発意の、御舟よそひて参れるなり。……」→「我ハ」と「~参れる(こと)」との結びつきを述べる
- ナリ∅は、この構成されたコトが真であるという肯定判断であり、この言い切りは②の形式とともに、叙想法(大鹿2004)に位置付けられる。言い換えれば上の①②(③)は、「「連体なり」に関して地の文では叙実法が成立しないということを示している」ことになる
- 地の文は、「いかなる意味においても当事者性を持ち得ない世界」であるから、ナリ∅、ナラムのようにして「準体句で表される事態を発話者(語り手)自らの内なる知識としてそれを別の項に結びつけ、真であるということができない」
- (Nナリが地の文でも用いられるのは、そこにあるモノが一般的なモノと同質なので、事実言明が可能だから)
- 地の文は、「いかなる意味においても当事者性を持ち得ない世界」であるから、ナリ∅、ナラムのようにして「準体句で表される事態を発話者(語り手)自らの内なる知識としてそれを別の項に結びつけ、真であるということができない」
- 逆に、地の文でも用いられる形式については以下のように考えられる
- ナリケリは、ケリが確定した世界を表す(=準体句で表される事態を知識として持っている)ため、地の文で事実言明できる
- ナルベシ・ナメリは事実言明できない形式だが、「私には~と思われる」という、「真偽判定の埒外」の「発話時に単に想定された事態」であるので、地の文でも用いられる
- ③が非地の文に偏在する理由はよく分からない