渡辺由貴(2011.3)中世における文末表現「と思ふ」と「と存ず」
渡辺由貴(2011.3)「中世における文末表現「と思ふ」と「と存ず」」『早稲田日本語研究』20
前提
- 中世における文末表現の「と思う」「と存ず」の位置付けを、以下2点から考えたい
- 話し手と聞き手の関係性
- モダリティとしての表現性
分析1
- 身分の関係を見ると、
- 「と存ず」は話し手<聞き手、
- 「と思ふ」は話し手≧聞き手
- 基本的な関係性の上では、
- 「と存ず」は、
- 「存ず」そのものよりも敬語助動詞や補助動詞の後接によって配慮を表している
- 「と思ふ」は、
- ナリ・ゾの後接が多く、
- 宇治拾遺・古今著聞集では「と思ふ」が専用される
- 「と存ず」は、
- その他の場合において、
- 「と存ず」は、
- 公の場では「と存ず」が使われる場合が多く、
- 天草平家の右・喜の会話でも「と存ず」が用いられる。これは「読者を意識した公的な表現」か
- 虎明本では名乗りの「と存ずる」が特に多く、これも公的性格を反映する
- 「と思ふ」は、
- 公の場(聞き手多数)で用いられることもあるが、身分が高い場合に限られる
- 母娘や恋人のような親疎の「親」でも「と思ふ」が用いられ、特に女性に偏る
- 「と存ず」は、
分析2
- モダリティとしての用法上の差異を考える
- 「と思ふ」は願望・意志(主観明示)に偏り、
- 「と存ず」は願望・意志以外(不確実表示、「だと思う」)もある
- 「とおぼゆ」は不確実表示に限られるので、
- 「と存ず」は文末思考動詞のモダリティ体系の中で、「「と思ふ」が表す主観明示の側面と、「とおぼゆ」が表す不確実表示の側面の両方を担い、敬語性を持つ表現として機能していた」
雑記
- パセリ
- コスパ非常によし、ただし収穫タイミングを逃すと固くなってしまう(しかしこれをまとめてごま油で炒めるとうまい)し、あんまり使わないので正直ドライパセリでもいいかなという感じがしました。