ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

宮崎和人(2020.10)可能表現の研究をめぐって

宮崎和人(2020.10)「可能表現の研究をめぐって」『国語と国文学』97(10)

要点

  • 可能は(ヴォイスではなく)モダリティの範疇で記述すべきであることを主張し、特に以下の3点について考える
  • 1点目、可能と実現について
    • 可能はポテンシャル(彼はその曲を最後まで歌える)、実現はアクチュアル(最後まで歌えた)である点で対立し、中間的な「アクチュアルな可能」(そのとき、僕はその曲を歌えた=歌うことが可能であった)もある
    • このことに基づいてテンポラリティから可能と実現を見ると、
      • 恒常的なポテンシャルな可能があり、
      • 過去は実現が中心となりつつ、ポテンシャルな可能(当時の学生は割引料金で映画を見ることができた)、アクチュアルな可能(状況的に可能であった)
      • 現在にも未来にも可能・実現のそれぞれが存する
  • 2点目、可能を条件づける要因について
    • アクチュアル/ポテンシャルと状況/能力可能が混同されている場合があるが、ポテンシャルな状況可能(晴れた日にはここから富士山を見ることができる)もある
      • 用語としては「条件可能」としておくのがよいだろう
    • 能力可能にもまた、ポテンシャルなものとアクチュアルなものが設定できてしまう
    • 以上より、能力と状況だけを要因として取り上げるのは明らかに不十分で、以下のように整理するのがよい
      • 従来の日本語の可能の記述ではデオンティックな可能(テモイイ)が可能の記述から漏れがちである
  • 3点目、可能と可能性について
    • can のごとく、日本語の「しうる」も、可能と可能性にわたって用いられる
    • することもある/可能性がある などの形式が、「可能性表現」の記述対象としてあり得る
  • 能力・条件可能はヴォイスに、デオンティックな可能はモダリティに、可能性は命題に、それぞれ別の範疇で取り扱われがちであるが、これはモダリティの規定の問題によるものだろう
    • モダリティを「現実の世界のできごとの存在のしかた」と定義する限り、これらの3種はすべてモダリティである

雑記

  • 「丁寧さのモダリティ」聞くたびに、いやお前は丁寧さやんってなる