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言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

尾上圭介(2012.3)不変化助動詞とは何か:叙法論と主観表現要素論の分岐点

尾上圭介(2012.3)「不変化助動詞とは何か:叙法論と主観表現要素論の分岐点」『国語と国文学』89-3

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要点

  • 現代のモダリティ論は非現実形式としてのモダリティ(A説)と話者の主観表現としてのモダリティ(B説)に分かれ、金田一の不変化助動詞への注目はB説に結びつくが、果たしてそれは必然的か
  • 不変化助動詞の特殊性が客観的VS主観的という文末辞論ではなく、現実叙法VS非現実叙法の問題として展開されるべきものであることを論じる

B説として

  • 不変化助動詞の特性
    • 1 他の助動詞の意味は対象的内容(否定とか過去とか)にあるが、ウは話者の行為的意味
    • 2 推量の諸形式の中で、ウだけが意志・命令などの希求系の意味を表しうる
    • 3 終止法・非終止法の意味が重ならない
    • 4 終止法の意志・命令の希求の意が推量と直接関係しない
    • 5 推量形式の中でウ・ダロウ・マイだけが疑問文述語に出られる
  • 金田一(1953)は3に注目して終止法の場合だけを「不変化助動詞」とし、1の点に注目してその特性を主観的なものであるとする
  • 戦後陳述論の文脈で捉えると、
    • もともとは時枝詞辞説への批判から
    • 一方、渡辺実の「第3類助動詞」の注目も、時枝詞辞説の精緻化を目指したもの
  • 渡辺陳述論の特性は、
    • 山田の統覚作用と時枝の文末辞の統一作用とを折衷したこと
      • 「雨」と「降る」の結合としての統覚作用を「叙述」、「降る」→「雨が降る」という詞を対象として文末辞「ぞ」が働くと見る「文末辞の統一的」を「陳述」として分けて、両者を折衷
    • 叙述の内部に収まる助動詞(2類)と収まらない助動詞(3類)に分けたこと
    • 助動詞と終助詞の異質性と、文末辞としての等質性を連続性で両立させたこと
    • 時枝の詞・辞の別は語順としての別だが、素材表示VS関係構成という職能の別に置き換えたこと
  • しかし、「どこ目当てか」の観点を前提としする連続性の説明は本質的な説明ではない
    • 例えば、「(われわれが)行こう」が「勧誘」と解釈されるのは、あくまでも文脈的なものであって、ウそのものの機能ではない

A論として

  • 動詞の叙法形式の一つとしての統一的解釈を試みる
  • ウ(→動詞シヨウ形)は運動や状態を、非現実領域に、「ただ成立することとして思い描く」形式であり、この本質的性格を「非現実事態仮構成」と考える
  • この観点から上記の1~5を捉え直すと、
    • 1 例えば主文末で用いられると存在承認や希求の方向で言語化されるが、これはやはりウそのものがもともと持つ機能ではない。終止法の性格が主観的意味に限られるのはこの事情による
    • 2 ようだ・らしいなどがそれそのものに推量の意味を持ち、一方でウはそのもの推量を表すものではないから
    • 3 そこで文が終わるから新たに意味が生じるのであって、非終止法の場合は非現実領域のこととして運動・状態を語るだけであるため
    • 4 存在承認の側の「推量」と希求側の「意志・命令」がそもそも派生関係にない(語り方によって結果的に異なる意味が出るだけ)
    • 5 推量形式は「こう思う」こと、疑問は「判断できない」ことを表すので、両者は共存できない。ウはそれ事態が推量の意を持つわけではないから、「分からないことの印として」共存可能
  • 叙法形式を分類すれば、
    • 現実領域か非現実領域か
      • 現実領域:シタ・シテイル・シタリ・セリ・シキ・シケリ
    • 非現実領域の中で、ただ組み立てる(仮構)か、承認するか
      • 仮構:シヨウ・セム・セマシなど
      • 承認:スベシなど
  • 非現実叙法は近現代語に至って衰退し(現代では仮構形式がシヨウとして残り、承認形式は代わりに述語外接のヨウダ・ソウダなどが創出された)、ウの異質性はその非現実事態仮構の形式が現代まで生き残っているものと見る
  • (5節はモダリティ論A・B説の発達史)