森野崇(1993.5)奈良時代の終助詞「ぞ」について
森野崇(1993.5)「奈良時代の終助詞「ぞ」について」『国語国文』62(5).
要点
- 前稿(森野1992)で述べた、中古の終助詞ゾの特徴が、上代のゾにも当てはまるのかを検証する
- 中古のゾ:「判断の対象として素材化されたモノ・コトについて、表現主体の断定の判断を明示する」
- 以下、「聞き手指向性」を、やや狭く、「具体的な聞き手の存在がその使用の前提条件となっていて、常にその聞き手に向かってはたらきかけていこうとする性質」と定義付ける
- 上代のゾには、聞き手指向性はないと考えられる
- ナム(係)が和歌に用いられないのを、ナムが聞き手指向的であることによる(和歌は独白的であると見る)と考えると、
- ゾが万葉集に多く見られる理由が説明できない
- 直接聞き手を目指したと考えると、下位者→上位者ととれる例も説明できない(憶良らは~)
- 贈答歌に用いられやすいのは、聞き手指向性が一義的に効くわけではない
- 上代のゾもやはり、中古と同様「表現主体の断定の判断を明示する機能を有する」と考える
- 聞き手指向性をもたないのも、むしろ「事柄めあてにはたらくものである」ことを示し、
- 命令・禁止の句の前にゾがめだつことも、ここから説明可能
- このことを踏まえて上接語を整理して比較すると、以下2点が注目される
- ① 上接語が(中古よりさらに)体言に偏ること
- ② 主体的表現にあずかる助動詞が上接する例があること
- ②の要因には以下の2つの可能性があり得るが、上代の推量が「客体的な意味合いの側面が勝って」いた(文末でも準体化できた)ものと見て、後者を採る
雑記
- 昔の国語国文がNDLで公開された件、PDFでいろいろ持っておくこと(しこしこスキャンすること)が、我々が死ぬまでにどれだけ価値を減ずるかの勝負になる感じがしている
- もちろん、減じられている未来のほうが望ましい