ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

青木博史(2018.4) 可能表現における助動詞「る」と可能動詞の競合について

青木博史(2018.4)「可能表現における助動詞「る」と可能動詞の競合について」岡﨑友子他編『バリエーションの中の日本語史』くろしお出版

これの続き hjl.hatenablog.com

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要点

  • 志波(2018)*1の仮説の検証として、可能の「る」の領域にどのように可能動詞が進出し、現代の「受身:ラレル/可能:可能動詞」という分担がいつ・どのように出来上がったかを見る
    • 志波(2018)の仮説
      • 非情の受身が発達しなかったことの要因は、(他言語との比較により、日本語では)非情の受身が発達し得る領域に自発・可能が進出したこと
      • 近代以降の非情の受身の発達の要因は、られるが受身専用になっていたこと

可能動詞について

  • 青木(1996)から
    • 形態的には四段動詞(無対他動詞)の下二段派生によるが、意味的には歴史を繋げにくい
      • 後期抄物では尊敬用法が優勢で、しかもそれが近世には姿を消す。否定形のみ保たれたと見るのがよいか
    • 可能動詞は成立段階で既に用法の偏りはなく、「可能表現一般を表す形式として成長していった」(p.209)、なぜなら、
      • 三宅(2016)の「対象可能→動作主可能」説は、実例にそぐわない*2
        • また、対象語を主語に取るのは可能に限ったことではない(自他交替でヲ・ガが交替するのと同様)
      • 申(2001)*3の「否定の状態可能→(否定の)能力可能→肯定の能力可能」説は、初期段階の能力可能を示す「読めぬ」によって否定される
      • 潜在可能・実現可能の考え方(吉田2013, 2016)*4の枠組みも可能動詞には当てはめがたい
    • さらに、助動詞「る」と可能動詞についても、中世末・近世において使い分けは見られない(3.2)
  • 以上より、助動詞「る」と可能動詞は同一範疇における既存と新興の対立として捉えられる
    • 勢力が交替するのは1910年頃

冒頭の問いに戻って、

  • 可能の領域を可能動詞が表すようになる→「る」が受身専用になる→非情の受身が発達する というルートよりも、
  • 非情の受身の発達によって「る」の受身の読みが強くなる→可能で用いにくくなる というルートを想定した方がよい

気になること

  • 初期の「読めぬ」の例をどのような「不可能」と見るか(見たいか)が問題*5、前記事のメモ参照
  • 否定から現れ始めることについては、「抄物の可能が否定に偏る」と見るのではなく、肯定の「読める」も一定数現れることに留意して(すなわち「読めぬ」が「読める」に対して優勢なのは資料的・文脈的制約によると考えて)、自動詞「言える」(主に尊敬)、「説ける」(主に受身)などが肯定でしか現れなかったことがメインと見てはどうか
    • 受動的事態が起こらなかったことや「自発しない」ことをわざわざ述べたりしないし(尊敬の否定についてはいい説明が出ないけど)
  • 三宅(2016)の「17世紀半ばごろまで対象可能」の反例を挙げる(p.203,204)が、三宅説に沿うならば、動作主可能の萌芽(が遡れた)とみなせばよいだけ?
    • 先よりおの〳〵書てもらいけるハ一字もよめず
    • 御望の通、なが〳〵と大文字をかきて、よくよめるを仕べし
    • よめるか法師達とのたまヘバ、いやなにともよめずといふ(以上、一休はなし[1668])
    • ちなみに「対象→動作主」について、三宅(2016)「近世上方における可能動詞の展開」(日本語学会2016秋)では、対象可能 or 動作主可能が曖昧な例が橋渡しとなった(再解釈された)か、と述べられる
      • これに限った話ではなく、「曖昧な用法を中間に想定」というのがどれくらい妥当な考え方なのか?というのは気になる、それって変化し終わった先からの観察っぽい

*1:同論文集所収

*2:このあたり、三宅(2018)の一部と(さらに)対立する

*3:申鉉竣(2001)「近代語における可能動詞の動向」『国語と国文学』78-2

*4:吉田永弘(2013)「「る・らる」における肯定可能の展開」『日本語の研究』9-4、(2016)「「る・らる」における否定可能の展開」『国語研究(国学院大学)』

*5:対象の読みもできなくはないけど、素直に読んだら動作主かなあ