ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

佐々木峻(1993.11)大蔵流狂言詞章の文末表現法:「……か知らぬ。」「……ぢゃ知らぬ。」等の言い方について

佐々木峻(1993.11)「大蔵流狂言詞章の文末表現法:「……か知らぬ。」「……ぢゃ知らぬ。」等の言い方について」山内洋一郎・永尾章曹(編)『継承と展開2近代語の成立と展開』和泉書院

要点

  • 虎明本・虎寛本の「か知らぬ」系の形式について見る
  • ひとまず、「ぞ知らぬ」から「ぢゃ知らぬ」と「知らぬ」への変化として理解できる
    • 「か知らぬ」は、虎明本・虎寛本の両方に見られ、虎寛本では、カ・ナと複合する例、「か存ぜぬ」の例がない
    • 「ぞ知らぬ」は虎明本にしかなく、虎寛本では「ぢゃ知らぬ」「か知らぬ」、もしくは別の表現に対応する
    • 一方で、「ぢゃ知らぬ」は虎明本には皆無である
    • 虎寛本には、カ・ゾ・ヂャを伴わない、単純な形の「しらぬ」がある
      • 岩波文庫本は「か」を補うが、12例もあるのでおそらく脱字ではない
  • 疑問語との呼応関係まで含めて見ると、
    • 虎明本の「ぞ知らぬ」が虎寛本の「ぢゃ知らぬ」や、「か知らぬ」「知らぬ」に、
    • 虎寛本の内部では、「か知らぬ」が「ぢゃ知らぬ」「知らぬ」と近い関係を見せる
  • 以上より、
    • 「か知らぬ」はそのまま継承
    • 「ぞ知らぬ」は「ぢゃ知らぬ」になることが多いが、一部は「か知らぬ」に
    • 虎寛本の「知らぬ」は「か知らぬ」の「か」が略されたものか

雑記

  • このシリーズ(?)知らなかった

村島祥子(2003.11)上代の〈名詞―ナガラ〉とカラ

村島祥子(2003.11)「上代の〈名詞―ナガラ〉とカラ」『上代文学』91

要点

  • 上代の名詞ナガラには「として」「ままに」「心任せに」と注されるが、もう一歩踏み込んで、「比喩や形容表現の一種と位置づける」表現として捉えなおしたい
    • 我が大君 神ながら 神さびせすと(38)
  • 上代の名詞ナガラの整理、
    • 上代の神ナガラは、神特有の動作や状態にしか用いられない(≠学生のまま結婚する)
    • 山・海・意志のような無意志の動作主体の場合もあり、「それにふさわしい存在感」を表す(山ながらかくも現しく・3332)
      • よって、トシテ・ママニは理解として不十分で、「心任せに」は不適当。「~であるにふさわしくV」が最も近い直訳である
  • なぜナガラがそのような意味を持ちえたのか、複合名詞Nカラから考える
    • 国からか見れども飽かぬ 神からかここだ貴き(220)
    • このようなカラは「目の前の出来事や光景の中に現れる物の性質を表す」抽象名詞であり、以下の特徴が指摘できる
      • 単独使用の例がなく、
      • 副詞句としてしか用いられない
      • 上接語は題目そのもの
      • 疑問・推量を伴うことが多い
      • 見る行為に関わる表現が多い
      • 題目が三人称のみ(特に一人称がない)
    • ナガラの「それらしい・ふさわしい」と感じた表現主体の見方を表す意味も、このカラの性質に由来する
    • (従来解釈の問題については略)

雑記

  • 後期はまとめて5本撮りとかして時間を作ろうね

村島祥子(2003.3)続日本紀宣命における〈名詞―ナガラ〉

村島祥子(2003.3)「続日本紀宣命における〈名詞―ナガラ〉」『日本文学誌要(法政大)』67

要点

  • 上代のナガラについて、続紀宣命を用いて考える
    • ナガラは名詞ナガラが先行し、連用形ナガラが後発的であることが知られるが、上代には平安初期の「露ながら」が見られず、「神ながら」類に偏る
  • 続紀の名詞ナガラは、
    • 神ナガラが多数、皇子・臣・君・山・海など
    • 万葉集のナガラが様々な述語を修飾するのに対し、続紀のナガラは「思ほしめす」にのみかかる(形式的)
    • 要するに、「天皇、(思惟内容)と、神ながら、思ほしめす」という固定的な構文で、これ以外は万葉集とさほど変わらない
  • 神ナガラの思惟内容は次の3パターンに偏る
    • 歴代天皇による治世の歴史を回顧する
    • 一大事に際して神意を推す
    • 天下太平のための一大政策をうちだす
  • いずれも、「神の血を受け継いだ最高権力者である天皇にしかとることができない行動」であり、「その時まさに天皇が神というにふさわしい行動をとったことを表す」
    • 天皇以外の名詞ナガラもこれに準じて考えることができる
    • 臣ナガラ、奴ナガラ(古事記)も、それぞれに相応した行動に用いられる

雑記

堀川智也(1994.11)文の階層構造を考えることの意味

堀川智也(1994.11)「文の階層構造を考えることの意味」『日本語・日本文化研究』4

要点

  • 南のA~Dの分類は混質的で、各類の要素も「本質的な同質性を持ってまとまっているのではない」
  • 従属節の従属度を本質的に考えるため、A類のテとナガラについて考える
  • 独立性の観点から、テ1は次の2種に分けられる
    • [甲]完全に従属:
      • 1 主節動詞の属性修飾:走って帰る
      • 2 主節動詞の意味内容の修飾限定:すすんで塾に行く
    • [乙]主節と分離可能で、様態を表す
      • 1 継続的な動作:音を立てて燃えている
      • 2 主体変化(再帰的):サングラスをかけて運転する
    • 甲は実質的には動詞性を失って、形容詞的・状態副詞的に使われているが、乙は動詞性を完全には失っていない(従属度が相対的に低い)
  • このことを踏まえて、ナガラの非逆接(A類)と逆接(B類)の関係性についても考える
    • 両者(同時性と逆接性)は区別できるようで連続的:チョコレートを食べながら、痩せたいとこぼす
    • このことに基づき、ナガラが根底に持つ共通構造を「共存性」にあると規定する
  • 同時性は時間的従属関係を持ち、逆接性は非時間的並列関係を持つ(川端1958)ので、以下のことが説明できる
    • 形容詞述語や名詞述語に典型的に逆接が見られることと、否定の付き方の差異
    • 逆に、動作動詞であっても「一つの完結した既定の事態」であれば、逆接の解釈が出る
  • 以上より、従属節の従属度は次のような階層をなすと考える
    • テ1甲>テ1乙>ナガラ(同時性)>ナガラ(逆接性)・B類テ

雑記

  • 殺虫灯ほしい~

松田真希子(2000.11)ナガラ節の状態修飾性をめぐって

松田真希子(2000.11)「ナガラ節の状態修飾性をめぐって」『日本語・日本文化研究』10

要点

  • ナガラ節の用法について、
    • 従来「付帯状況」とされてきたナガラ節に付帯と並立が存する
      • 付帯:ボールを走りながら取った
      • 並立:音楽学校に通いながら個人レッスンを受ける
        • 並立用法には付帯と連続する並立用法と、逆接と連続する対比用法(チョコレートを食べながら痩せたいとこぼす)が存在する

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p.38

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p.41

  • 「状態修飾」性について、
    • 付帯用法の状態修飾には以下2種があり、前者がより状態修飾的(cf.風が涼しく吹く)である
      • 限定的付帯(方法・様態):おにごっこをしながら遊んでいる
      • 付加的付帯(様態・並列):銀行でお金を借りながら、なんとか生活した

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p.41

  • 前者・後者ともに主節動詞の過程性を規定するが、後者はそれだけではなく、アスペクトとも相関する可能性がある
    • 祖父は笑いながら{死ぬ/死んだ/??死んでいる/??死んでいた/??死にかけた}

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p.46

雑記

  • 日本語学会、クレカで支払いさせてほしい~

安田章(2006.1)アドリブの意味

安田章(2006.1)「アドリブの意味」『国語国文』75(1)

要点

  • 天草平家の2%程度、右馬、喜一の、平家とは関係のない対話部分(アドリブ)がある。この資料性と意味について考える
  • 二人の関係について、
    • 喜一→右馬では、敬語動詞・(サ)セラルルなどの「最高の敬意」や、マラスル・ゴザルを用いる
      • 尊敬+丁寧は、ヘイケの由来にはあるが、アドリブにはない
    • 右馬→喜一では、尊敬表現は命令文だけ(品格保持のため)で、丁寧表現も例が少ない
    • 両人を対等にしなかったのは、敬語の使い分けを観察させるためであろう
    • 人称代名詞は、喜一はワタクシ・コナタ、右馬はミドモラ・ソナタを用いる
  • ヘイケの和らげ方について考えたい
    • ケリは、タに置き換えられる他、「たと聞こえた」とその丁寧体、「たと申す」など、「夕に置き換えるという単純な作業を起点として、右馬之允への敬意表現をも併せて問題が多岐にわたってゆく」
  • アドリブ部、喜一→右馬のデコソゴザレとマラシテゴザルについて考える
    • ああ、これは忝い、冥加もないお茶でこそござれ、極と見えまらしてござる(284)
      • ミョウガモナイ」は『かたこと』で批判されるもので、「文章を粗野かつ野鄙にする2つの欠陥」(大文典)の1つである
        • cf. コソ係結の異例を作り出すことで「粗野と典雅を表し分けていた」こと
    • どちらも当代の最高の丁寧表現として生成されたものであり、
    • 当時の「現代語」がアドリブ部に反映されており、「上下関係を設定した二人の「平人」の間で交わされた形で「現代語」をハビヤンが記し止めようとしていた」と考えられる

雑記

  • あっ、これは2009に入ってるのか~

丸田博之(1994.7)ロドリゲス編「日本大文典」に於ける日本人の関与について

丸田博之(1994.7)「ロドリゲス編「日本大文典」に於ける日本人の関与について」『国語国文』63(7)

要点

  • 大文典には、イエズス会の方針と食い違う編集態度が見られる
    • キリシタンが禁止事項とする起請文が収められる
    • 起請文や願書が、日本の神仏をデウスに差し替えただけの記述(すなわち、デウスと日本の神を対等視してしまう)
    • これは、ロドリゲス以上に日本語に通ずる宣教師がおらず、「事実上の検閲者もまたロドリゲス自身に他ならなかった」ためであろう
  • この「大文典固有の編集態度」は宗教上のこと以外にも見いだされ、特に論語御成敗式目の引用が日葡に比して多いことが注目される
    • 引用文の論語と清家本論語集解、式目と清家系式目の一致率は極めて高く、
    • すなわち、ロドリゲス大文典の編纂には、「清家に関わる人物」が何らかの形で関与していたと考えられる
  • ただし、起請文はそれほど一致しない
    • 白文の読み下しに携わった人物による非清家系の文言、一般的な起請文の文言が混入したと考えるが、
    • そうすると、起請文を訓んだのはロドリゲスではなく、補佐した「日本人イルマン」であると考える(ただし、他の一致率を考えると訓読にも清家に関わる人物が携わった可能性も捨てがたい)
      • 本国人の助けによってロドリゲス本人の能力により記述したと考えられてきた大文典の把握に、新たな視点の導入が必要

雑記

  • 研究会したいネ