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言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

中川祐治(2006.4)副詞はどう変化するのか:日本語史から探る副詞の諸相

中川祐治(2006.4)「副詞はどう変化するのか:日本語史から探る副詞の諸相」『日本語学』25(5)

要点

  • 文法化の枠組みで、副詞の変化の実態とメカニズムについて考える
  • 1 イタク・イト
    • イタもしくは形容詞イタシから派生した語で、
    • イタク・イト(甲)は原義「痛」との結びつきが強くマイナスのニュアンスがあるが、イト(乙)は中立的で、程度の甚だしさを表すのみで、漂白化の一例であると言える(cf. カマヘテ)
  • 2 サナガラ
    • あるものXがそのままの状態Yであると結びつける(すっかりそのまま)のが原義であるが、
    • 鎌倉以降には現実の事象レベルを越えた結びつき(さながら夢になりにけり)を持ち、
    • この「2つの概念感の類似性を認める」ことが比況の意味に繋がる
  • 3 イカニモは、後に応答詞の機能を持つようになる(主観化の事例)
  • 4 ツユは、名詞「露」を出自として、メタファー的拡張によって意味的変化(わずかである/少しも~ない)を起こした例
  • なお、副詞の発達と係り結びの衰退には関連がある
    • まいりたるこそ神妙なれ(平家)/参ったることはまことに神妙な儀ぢゃ(天草平家)
    • 「係り結びの包括的、複合的な機能の一部を副詞表現の発達が補っていったことを示すものである」

雑記

  • 働きたくない!

幸松英恵(2015.2)〈事情推量〉を表さないノダロウ:準体助詞ノを含む推量形式に見られる2種

幸松英恵(2015.2)「〈事情推量〉を表さないノダロウ:準体助詞ノを含む推量形式に見られる2種」『学習院大学国際研究教育機構研究年報』1

要点

  • ノダロウはこれまで〈事情推量〉を中心として論じられてきたが、そうでない、ダロウと可換ノダロウがある
    • (彼女は今、)寝巻のまま受話器を握りしめているのだろう
  • こうした、事情推量を表さないノダロウは、
    • 所与の事情を推量しているのではないという点でダロウと共通するが、
    • 既に定まったこととして推量する点ではダロウと異なる
  • ダロウ・ノダロウには時制上の偏りがあり、
    • ダロウは現在・未来の推量に偏り、
    • 事情推量を表す通常のノダロウは現在・過去に偏り、
    • 事情推量を表さないノダロウは、ダロウ同様、現在・未来の推量に偏る(すなわち、形式ではなく、意味に起因する差異である)
  • この、事情推量を表さないノダロウを、既定事態推量のノダロウとするとき、この2者の関係をどのように考えるべきだろうか?
  • ノダ・ノダロウの歴史を概観すると、ノダの定着に伴い、ノダロウにノ+ダロウ→ノダロウ(事情推量)という推移が観察され(鶴橋2013)、これはいずれも主題-解説という構造を取り続けているものの、
  • 本稿で扱った既定事態推量のノダロウにはこの題述恒常が見られない
    • すなわち、「〈既定事態推量〉のノダロウとは,ノダの発生・発達に引っ張られるかたちで発展を遂げてきた〈事情推量〉のノダロウとは,異なるルートを辿った形式なのだろうと考えざるを得ない。事情を説明するノダの推量形ではない,別形式ということである。」
    • この、事情説明的なノダとそうでないノ系列があるという指摘がノデハナイカにもある(宮崎2002、事情を表さないノデハナイカ、ノダの「空用」「流用」)

雑記

塚本泰造(2006.3)馬琴の文語に見られる「から(に)」が意味するもの:「から」をめぐる言説とその影響

塚本泰造(2006.3)「馬琴の文語に見られる「から(に)」が意味するもの:「から」をめぐる言説とその影響」『国語国文学研究』41

要点

  • 馬琴の文語に見られるカラについて考える
    • こは交易の為に渡海せし、日本人よと思ふから、貯もてる薬なんどの、ありもやすると立よりて御身が懐をかい探るに、(椿説弓張月
  • この現象は、カラ周辺の語群や言説を踏まえると、直接的な俗語の混入とは考えられない
    • 馬琴自身に、カラ(ニ)を王朝語の系譜を引くものと捉える言説があること
    • ラニや、連語「一夜の間(カラ)に」がしばしば見られ、このカラが上代語に由来すること
  • 馬琴のカラニは、「後件に通常・尋常ではない状態・事態があり、なぜそれが生じたのかを前件に位置させて、この二つを結びつける」ものが多い
    • こは不審とおもふから、ふたゝび汀渚に走り出、と見かう見れど(椿説弓張月
    • 宣長のような、正誤に基づく批判(塚本2001)の含意はない
    • また、「間」字で表記されることも多く、継起的表現も担う
  • このカラは結局「ひとよのからに」に収斂して衰退する
    • 「因果でもあり継起でもありうる」という両義性が衰退の原因であり、
    • ラニ・サルカラニもまた同様に両義的であって、
    • そこに新たに、ソノママを文語めかした(ト)ソガママが成立した*1

雑記

  • おしまい

*1:「曖昧さを保ったままであれば、新しい表現欲求もその担う形を確かにつかむことができない」(p.9)とあるけど、ソガママが継起を表すなら、因果の側に(一般的なバ・ユエニが持たない特別な領域を担うものとしての)カラが残ってもよいのでは?

塚本泰造(2003.3)真淵・宣長の擬古文の作為性:富士谷成章の和文とその「から」「からに」観との比較を通して

塚本泰造(2003.3)「真淵・宣長の擬古文の作為性:富士谷成章和文とその「から」「からに」観との比較を通して」『国語国文学研究』38

要点

  • 宣長のカラは原因・理由を批判的に強調し(塚本2001)、真淵のカラニ・カラハも同様の機能を持つ(塚本2002)
  • この改変は意図的になされたものと考えられるが、成章の和文と比べるとどうだろうか
  • 成章の和文においては、真淵や宣長のような逸脱したカラ・カラニは見られず、伝統的なバ・ユヱニ・ヨリで統一される
    • 成章は俗語のカラ・カラニを意識しつつ(ソヂヤカラ・かざし抄)、いわば潔癖に散文で使わないようにしている
  • あゆひ抄のカラはヨリ家に位置付けられるが、口語訳はヨリハヤなどが当てられており、因果を担うものではない
    • 宣長の遠鏡訳はカラシテ・トソノママ・テカラがあり、事態共起のみならず因果を表すものとしても把握されている
    • さらに宣長には、カラノ・カラナリのような作為のあるカラが少なからずある
  • ラニからニを省いてよい理由を考える
    • 成章にはニの形式性(あってもなくても変わらない)を主張する箇所が見られ(ヅカラ・ヅカラニ、~ミニ・~ミ、ナベニ・ナベ)、
    • カラ・カラニのどちらを典拠とするかと考えたとき、上代に例のあるカラの方を採用するということが考えられる(成章は結局それを行わなかったものの)
  • まとめ、
    • 成章のカラは中古和文に則ったが、真淵・宣長は、表現欲求にふさわしいことばを求めて、古語のカラ・カラニに新しい用法を与えた
    • その作為性は、上代から使われ続けていたことばを再利用することであり*1、因果をより細かに表現し分けようとする「日本語の流れ」が背景に働いている

雑記

  • 11月が半分終わってて怖い

*1:カラハの用法自体は近松にもあるから、俗語との混淆を見出してもよいかもしれない

塚本泰造(2002.2)賀茂真淵の著述(擬古文)における「から」系のことば

塚本泰造(2002.2)「賀茂真淵の著述(擬古文)における「から」系のことば」『国語国文学研究』37

要点

  • 宣長のカラには不自然であると判断された事態を批判的に表現使用する傾向がある(塚本2001)が、擬古文の先駆者である賀茂真淵の場合はどうか
  • 真淵のカラニは、以下の3点で誤用であり、
    • 本来は歌語なのに散文用語として使われる
    • 上代・中古和文に見られないカラハと共存する
    • 本来は時間的な連続性を持つが、それが薄く、因果を繋いでいる
  • 当時の通念・通説に対し異議を申し立てる発現に集中する
    • 自然な帰結の場合にはユヱ・ヨリのみが現れる
  • カラハも、前件と後件が独立し、異議申し立てを行う機能を持ち、
  • 宣長に至って、カラに引き継がれたと考える

雑記

  • まとめて読みます

塚本泰造(2001.4)本居宣長の著述(擬古文)に見られる「から」について

塚本泰造(2001.4)「本居宣長の著述(擬古文)に見られる「から」について」迫野虔徳(編)『筑紫語学論叢』風間書房

要点

  • いわゆる分析的傾向の流れの中で、その表現欲求を満たそうとするとき、擬古文は、和文という古い「コマ」を使うしかないので、その用法に変化が見られるはずである
  • この観点から、宣長の著述における接続助詞的なカラの分析を行う
    • 知りがたきを、強て知がほに定めたる漢人の説は、大きに違へるひが事多きを、儒者はえわきまへずして、実にさることと思ひなづめるから、かゝるひがことはいふめり(くず花)
  • 宣長のカラの性質、
    • 遠鏡にはカラシテ・カラハで現れるので、口語のカラの混入ではない
    • 中古和文はカラニが普通なので、中古和文のカラの模倣とも考えられない
    • 連体形につくこともあり(有しから・古事記伝)、品詞上も曖昧である
    • 似た機能を持つものに「故に」「によりて」「より」などがあり、特に「故に」が近く、カラはそれよりは特殊な表現領域を担うのではないか
  • カラが繋ぐ因果は、学問的批判・道徳的批判など、「現在のある事態・結果を不自然と判断した場合、それに対する批判・説明の表現に集中する」
    • 「故に」にも同様の例が見られるものの、批判的な内容は、カラの承ける叙述内容に偏る
  • ラニにも同様の例があり、宣長のカラはおそらくカラニに由来すると考えられる
    • モノカラをもとに、カラニからカラを析出したと見る
    • ニを省いてよいと考えた理由はよく分からないが、体言カラ(心カラ)があることが一因か
  • 以上の宣長のカラの使用(批判的な強調)を支えるのは学問的な確信であり、
  • このような因果関係の思考の営みにおいて(のみ)、擬古文に日本語の表現の流れを示すような現象が見られるのではないか

雑記

  • 勉強って続かないね

福田嘉一郎(1998.2)説明の文法的形式の歴史について:連体ナリとノダ

福田嘉一郎(1998.2)「説明の文法的形式の歴史について:連体ナリとノダ」『国語国文』67(2)

要点

  • 連体ナリとノダの関係について、平家と天草平家の対照に基づいて考える
    • 信太1970は、連体形準体法+ナリ→連体形+ノor形式名詞+コピュラへの交替を想定するが、
    • 実際にどのような形式名詞が用いられたのかは明らかでない
  • 覚一本→天草平家の対応関係は以下3種、
    • 1 連体ナリ→連体ナリ・ヂャ:此世にあるならば→この世にゐるならば
    • 2 連体ナリ→名詞+指定:べきにもあらねば→~うずることでもなければ
    • 3 それ以外
      • 2 は多くなくしかも類型的な言い回し(ウズルコト/儀デナイ)に偏る
      • また、連体ナリは天草版で無視された例が最も多い
    • 「あまりにひたさはぎにみえつる間、帰りたりつるなり→あまりにひた騒ぎに騒いだによって帰った」のように、現代語でノダが必須なのに天草平家には何もない例があることを重視しつつ、現代語でノダが必要な例について考えたい
  • 理由を特立する場合に中世後期の口語には文末に特別な表現を必要としないが、ノダ相当のモノヂャがある例があり、これは判断実践文(推量的判断)に限定される
    • 此つなを引たによつて、つえがあたつた物じゃ(虎明本・瓜盗人)
    • 一方、モノナリや連体ナリは知識表明にのみ用いられるので、この2種は直接の関係性を持たない
    • また、中世後期におけるナラバには、連体形ではなく文を承接することも可能であった(忘れうぞなれば・天草平家)
  • 以上の、文末に表現を伴わない理由の卓立、判断実践文のノダに相当するモノヂャ、文承接の指定辞は近世前期にも引き継がれる
    • ただし、当期のノダはあくまでも準体助詞+指定辞(あれは犬が聞そこなふたのじや)であって、
    • 「説明の助動詞」となったノダがモノヂャと交替するのは近世後期のことであろう

雑記