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言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

林禔映(2017.5)副詞「所詮」の史的変遷

林禔映(2017.5)「副詞「所詮」の史的変遷」『日語日文學研究』101(1).

要点

  • 所詮が否定的意味を持つこと、「詮ずるところ」と訓読される例に注目しつつ、その歴史について考える。
  • 史的変遷、
    • 原義は仏教語の「大乗の経典によって表されること」であり、中古以前の漢文資料の例もこの意味のみ。
    • 中世の古記録・古文書では、「結局、つまり」の意(せんずるところ)で用いられ、中世後期には否定的意味の読み取れる例が見られ始め、
      • 所詮、問答は無益ぢや。何であらうともままよ(エソポ)
    • 近世には否定の例に偏っていく。
  • この否定的意味への偏り(変化)は、漢語「詮」が、和語の「~無し」に倣って「詮無し」「所詮無し」の語法を生むことで、音読の「所詮」に否定的な意味を加えたことによるものと考える。

雑記

  • 「国立大学名誉教授」ってそんな忖度され得るポジションか?

佐田智明(2002.3)副詞「決して」の成立について

佐田智明(2002.3)「副詞「決して」の成立について」『日本近代語研究3』ひつじ書房.

要点

  • 「決して」は当初(近世文化頃まで)、「さだめて」「必ず」の意を持ち、否定とも呼応するようになる。
  • 化政期以降、例えば八笑人では否定との呼応に偏り、文政期以降に現代的用法がほぼ成立したと言える。
    • 肯定文の「決して」は「きっと」などにおきかわってゆく。
    • ただし、近世後期の「決して」は文体による頻度差がある。

雑記

  • 定価4万8000円の論文集、何?

樋渡登(2002.3)副詞「総別」「総じて」と洞門抄物

樋渡登(2002.3)「副詞「総別」「総じて」と洞門抄物」『日本近代語研究3』ひつじ書房.(2007『洞門抄物による近世語の研究』おうふう を参照)

要点

  • 洞門抄物における「総別」「総じて」の差異を、以下の分類に従いつつ考える。
    • 全体用法:全体を概括的にまとめる
    • 一般用法:一般的な法則や慣例、傾向などを述べる
    • 強調用法:打消表現を伴い、事柄の確実性を強調する
  • 洞門抄物では、
    • 室町中後期成立の語録抄(碧巌録抄など)では、「総じて」が副詞として用いられるが、「総別」は仏教用語・一般名詞がメイン。
    • 室町後期以降の代語抄(巨海代抄など)などでは、「総別」は副詞として固定化している。
      • 総別心地ノサビタ人ガ家風マデモ物スゴイ物ダ(巨海代抄)
  • その他の資料では、
    • 関西系の抄物では「総別」の使用は少なく、「総じて」が用いられる傾向にある。
    • キリシタン資料では併存し(総別には位相的偏りあり)、狂言台本では江戸初期頃を境に「総別」が用いられなくなっていく。
  • 和文体には「総じて」、記録体や和漢混淆文体には「総別」が多い。
  • 口語資料にも見られるが、日常の常用の語ではなく、「教義用語的で、ある品位を伴った語であったろう事は想像できるし、どちらかといえば男性特に近世前期にあっては、武家層に好んで用いられた語でもあったようである」

雑記

  • 主張がわからない論文、「用例があることが大事、用例があることが大事…」って言って心を落ち着かせる

ronbun yomoː

この記事は、言語学な人々 Advent Calendar 2022 の5日目の記事として書かれました。

adventar.org

はじめに

論文を読んで箇条書きにするだけのブログを始めてもう4年半ほどになるみたいで、自分でびっくりしています。専門は日本語文法史で、それに関係する論文を中心に読んでいるのですが、誰かに強制されているわけではないので時折怠けて休むこともあります。

今日までの投稿は810件ちょっと。ronbun yondenai 記事もあるので、だいたい800本ほどは読んだということになります。

Advent Calendar というよい機会をいただいたので、このブログをやっていてよかったことと、よくなかったことを思いつく限り挙げてまとめて、総合的に見れば継続して ronbun yomu 方がいい、という話を書きます。

よくないこと

A but B では Bに重要な内容を書けと教わったので、よくなかったことを先に書きます。

強迫観念と罪悪感

忙しくて無理~!ってなったときに一旦やめてしまうと、どうしても罪悪感を抱いたまま日々を過ごすことになります。しかし、別にブログなんてやってなくても休んでれば罪悪感はあるし、ちょっとくらい強迫観念でもないと勉強しないので(ダイエットを周りに宣言するのと似ています、これでちょうどよいとも言えます。

長い論文・難解な論文を避けがち

「記事にする」ことを目的化しすぎてしまうと時折こういうことが起こります。実際はさすがにそこまでアホではなくて、長い論文はざっと読んで、難しい論文は頑張って読んで、その後、内容を忘れてることが多いです。

「負のリーディングリスト」が作れない

論文をdigっていると結構な確率でなんやこれというのに出会います(よね)。研究の中で引いてなんやこれと書く分にはいいんですが、匿名のブログで単にマイナスな感想を書くのは避けたいところです。しかしそうすると、後述するリーディングリストとしての機能を果たさなくなります。が、これはブログという形態を取らなければ生じない問題です。

その他

  • なまじアクセス数がそこそこあり、hatena のドメインも信頼度が高いので、研究者の名前を検索すると引っかかることがそこそこあります。検索の邪魔になっていたらすみません。
  • 独自性のあるレビューのようなことをしているわけではなく、ファスト映画ならぬファスト論文的なところがあるので、出版社から出版された論文集に入っているものの扱いに悩むことがあります。一旦よけている間に論文フォルダに新しいファイルがどんどん溜まっていって、存在を忘れてしまうことが多くて困っています。
  • 毎日論文読んで当たり前勢からすると、当たり前のことをわざわざ開陳している愚か者に見えることをやっているという自覚があります。もしそう思われていても、私は他の方法を取れないので仕方のないことです。
  • 特に院生のときはスキャナの前に立ち続けて腰を悪くしていましたが、色々なものがインターネットに公開されるようになると、この労力が無駄になる可能性があります。*1

よかったこと

上に書いたのはどれも性格的な問題だったりブログという体裁をとるから起こる問題だったりして、当然、よいことの方が断然多いです。

テーマが広がる

先行研究を読むのはさすがに当たり前なので、できるだけ「今やっている研究と直接関係する論文」は記事にしないようにしています*2。至極当たり前のことですが、これが後々の研究の先行研究になったり、新しいテーマの着想になったりします。

具体的な例をいくつか挙げておきます。大きなところでいうと、博論提出後に研究の方向性を少し(博論の延長にならない程度に)シフトしたのですが、それまでに読んでおいた分の蓄積と、就職後にいただいた長めの発表の機会がなかったら、これはあり得なかったことだと思います。 今年グループで出した科研も yomu してなかったら申請できてないタイプのもので、ちょうど数日後に出る、ちょっとレビュー論文っぽい内容を含む論文ももうちょっと浅い内容になったはずです。

とはいえ、これは研究テーマの広げ方としては本当に当たり前のことであって、それを単にインターネットの海に開けっ広げにしているだけのことかもしれません。

「目は通した論文」が増えた

これは院生の頃から持っていた習慣ですが、新着雑誌・新着図書や出版社のサイトの新刊などに一通り目を通すようにしています。これをもっと意識的にやるようになったので、おそらくは研究の見落としが減りました。

上に「だいたい800本ほど」と書きましたがこれは記事化したものの本数であり、スキャン・ダウンロードした論文をぶちこむフォルダには2018年6月以降で3000個くらいPDFがあって、これ以外に読んだ分、スキャンしてない分なども含めれば、もっと目「だけは」通している…ということになります。

「確かあそこにあんなのが載ってたな」というのがとても大事だ(から、本はいくら買ってもよい)というのは研究者が共通して持っている感覚だと思いますが、教育する側に回るとまた別の側面で大事になるというのをしみじみ感じます。興味があんまりない研究にも一通りは目を通していないと、十分に情報提供が出来ないです。

リーディングリストができた

元々、エクスプローラーでアプリを使ってファイルにタグ付けするのは永続性がなさそうだし、Evernoteは操作性に不満があって、でも使いやすいGoogle Keepはシンプルすぎて論文の整理には向かない…という事情があって、じゃあブログでやっちゃおうと思い立ったのが、始めた理由の一つでした。*3

なお、今はNotionというベリーベリーグッドなツールがあって、ac.jp のメールアドレスがあれば有料プランも無料で使えます。

記事にカテゴリーをつけておくと、こんな感じで整理ができます。そして自分が、室町~近世語の研究が好きなんだということにも改めて気付かされます。

係り結び カテゴリーの記事一覧 - ronbun yomu

近世 カテゴリーの記事一覧 - ronbun yomu

小さい頃からなんでも忘れるタイプで、読んだかどうかもどんどん忘れていくので、過去に読んだことがあるかどうかを確認できるのはありがたいことです。そのうち、以前記事にしたものをまた記事にするのをやらかすと思っているのですが、現状起こっていないか、気付いていません。*4

講義資料の貯金ができる

概論であれば、何か特定のテキストを使うなり概説書から寄せ集めてくるなりしてなんとか15回分の構成ができますが、もうちょっと専門的な内容、例えば文法史で15回やろうと思うと、概説書や講座物だけではきついところがあります。かといって大学院を出たばかりだと、自分がよく知っている内容だけで15回やるのも無理です。(このへん、皆さんどうしてるんでしょうね?)

研究と直接関係しているようでしていない、しかしちょっと関係はしているような論文を読み続けていると、結果的には(狭い意味での)隣接分野についての貯金を常に続けている状態になります。これは講義資料を作るときに大いに役立って、度々過去の自分に感謝することになります。

その他

  • あんま面白くないと思ってた分野を面白く感じるようになりました。私のことを知ってる人からすると信じられないかもしれませんが、院生の頃にはモダリティ研究にあんまり興味がありませんでした。
  • エアロバイクを漕ぎながら論文を読むと痩せて、健康によいです。
  • ひた隠しにしているつもりもないんですが、顕名でやっているわけでもないので時折身バレします。お前やろ?と言われるとだいたい面白いです。
  • いらすとやにありそうないらすとが分かるようになって、こう検索したらこれが出るだろうな」という肌感が身につきました。

おわりに

最初は「読まなきゃいけないものが多すぎる」「だから、継続して論文を読みたい」「輪読的なやつをやりたかったけど友達がいない」「慶應の堀田先生のブログがすごい」*5黒柳徹子氏の「ピアノを今日始めれば10年後にはピアノ歴10年」の逸話を読んだ」などの複合的な理由があって突発的に始めたのだと記憶しています。得るものの方が多いので、今後もなんとか、合間を縫って休まず休まずやっていけたらと思っています。

職に就くとまとまった研究時間(調査や分析、アウトプットにかける時間を指す)を取ることができなくなり、まとまった研究時間を取ることができない人は大抵の場合、まず最初にまとまった勉強時間を取ることをおろそかにしてしまいます。一方、インプット不足のままアウトプットを求められることがちょくちょくありますが、これは腸が空の状態で腹パンされるようなものであって、とても辛いことです。

健康は毎日の食事から。来年の計は12月にあり。この記事を読んでやる気が出た方は…是非、始めてみてください。

雑記

  • 他に以下の候補がありました。上はそのうち公開します。
    • インターネット上で閲覧できる抄物影印類の底本
    • ブラウザ上で触れるGAJ(続)

*1:しかし、NDLの国語国文のバックナンバーはわざわざ非公開になったようです。

*2:とか言いつつ、先月は先週末の発表のためのものを読みまくっていた

*3:英語論文の整理はZoteroに移行しましたが、日本語論文はどうしてもとっつきにくい

*4:読み終えた論文をぶちこむ「読んだ」フォルダがあって、事故防止と、自分が知っているはずのことをざっと確認するのに使えます。

*5:こんなに続くとも思ってなかったので、アウトリーチに向かない形式にしたのは少し失敗だったかなとも思っています。

川瀬卓(2011.4)叙法副詞「なにも」の成立

川瀬卓(2011.4)「叙法副詞「なにも」の成立」『日本語の研究』7(2).

要点

  • ナニモに以下の2種があることを踏まえ、その歴史的変化について考える。
    • 数量詞相当:ごはんをなにも食べなかった。
    • 叙法副詞:なにも野菜が嫌いなわけじゃないよ。
    • 一方で室町には、以下のような例がある。
      • 上下ぬがせ、あつかひ人なにもとりてやるなり(虎明本・きんや)
  • 歴史概観、
    • 中古はほとんどが肯定文で用いられ、
    • 中世末~近世には否定との結びつきが強くなる。
    • 近世後期には叙法副詞の例が見られるようになる。
      • コレ手めへ、何もふさぐこたアねへ(膝栗毛)
  • 叙法副詞の成立過程について、
    • 近世の数量詞用法のなにもが非存在文に偏ることを踏まえると、(4.1)
    • 特に「~ことはない」を文末に持つ例が、単なる「事態の非存在」ではなく「事態の不必要」の意味を帯びる場合があり、そのとき、ナニモが不必要の意味を呼応すると再解釈されて、叙法副詞用法が成立したと考える。(4.2)
    • その後、述語のバリエーションも増える。(4.3)

雑記

  • この7行目の「動サルカ」の朱点、不濁点?

dl.ndl.go.jp

佐々木文彦(2012.3)副詞「ふと」の意味・用法の変遷について

佐々木文彦(2012.3)「副詞「ふと」の意味・用法の変遷について」『近代語研究16』武蔵野書院

要点

  • 三四郎』の「三四郎はとんだことをしたのかと気がついて、ふと(≒あわてて・急いで)女の顔を見た」の現代語からの違和感を手がかりとして、その意味変化について考える。
  • 現代語の「ふと」は、以下の特徴を持つ。
    • (A) 主として動作主の思考や意識の中で起こる精神作用と結びつく
    • (B) 前触れや明確な原因・理由・目的を持たない
  • 平安時代の「ふと」は、「動作が素早く行われるさま」を表し、
    • 中納言の君、「新しき年は、ふとしも、えとぶらひ聞えざらむ」とおぼおはしたり。(源氏・椎本)
  • 意識・感情・知覚を表す場合にも上のBを満たさない例が多いが、
    • うしろめたう思ひつゝ寝ければ、ふと驚きぬ。(源氏・空蝉)
  • 中世以降には「偶然性」の意味を強め、これが特化する形で近代に至る。
    • この男、ふと来て、守に目をみあはせたりければ、守、心えて、(宇治拾遺)

雑記

  • 新手のSEOで「○○(料理名) まずい」とかでヒットさせようとするのがあるっぽくて(食べ物の名前入れるとサジェストに出てくる)、普通に不幸になってくれんかなと思っちゃう

坂詰力治(2002.12)抄物に見える「サテ」(不可)について:「カナ(叶・適)ハヌ」との比較を通して

坂詰力治(2002.12)「抄物に見える「サテ」(不可)について:「カナ(叶・適)ハヌ」との比較を通して」『近代語研究11』武蔵野書院.

要点

  • 「不可」の意味を表すサテが抄物に見られることについて、他ジャンルのカナハヌとの比較を通して考える。
  • 感動詞化したサテから派生して(サテイカニのイカニなどが省略されて単独で)、形容動詞として「その事態を疑わしく確信しかねるものとして留保するさまである意を表す」用法を表す例がある。
    • 文字ニアヤカリテハサテヂヤホドニ、、…出ツベカラズ(中華若木詩抄)
  • このサテは、
    • 辞書の意味記述に見える「事態に対する疑惑や不賛成」は、事実や社会的・慣習的にうち立てられた基準・道徳に基づく疑惑・不賛成であるものと記述できる。
    • 形容動詞らしい用法もあるが(サテデアラウズ・サテニナル)、多くは文末に「~テハ、サテゾ」として用いられており、感動詞としての名残を認めることができる。
  • イカニ美人ナリトモ、心地ガ悪テハサテゾ」(論語抄)のような例は、「カナハヌ」に通ずるものと思われるので、カナハヌの方も検討する。
    • 抄物に見えるサテ(不可)は、カナハヌに入れ替えてもほぼ同様の意味を持つ。ただし、カナハヌの場合は直接的、サテの場合は婉曲的な物言いになる*1
    • 狂言にはカナハヌ・カナフマイが多く見られる(サテは用いられない)。これは、「狂言が対話劇であり、そ こでは現時点で起こっている事柄や事態を直載的に表現することが求められたから」であろう*2

メモ

  • このサテ、感動詞が内容語化してて面白い~と思っておもしろ転成メモに入れてあったけど、感動詞から転成する語ってそこそこある(感動詞と言っていいのか、単に引用なのか分からないやつも入れている)
    • あわれ、あっぱれ
    • いや、いやいや、いやおう
    • 「ヤンヤ」な沙汰(浮世風呂
    • おいそれ
    • おせおせ、どっこい、どっこいしょ、どっこいどっこい(伯仲の意での)
    • さよなら(にする、サヨナラホームラン)、ごめん(それはごめんだね、とか言うときの)
    • すててこ(囃子言葉→すててこ踊り)、ものもう(和歌山のイベント)
    • 休め、気をつけ、待て、あーん(サ変可能)
    • あたらし」とか「いざなう」とか「いなぶ」とか
    • 「あなぜ」(西北風、日国「「あな」は感動詞、「せ」は風の意」まじかよ)
  • まだあったので追加(2023/1/12)
    • あわや
    • 「うん」とばかり
    • 善哉なり(食べ物のぜんざいもこれ由来説あり)

*1:直感的には分かるけど記述が演繹的で、何か文脈から得られる違いがないか、知りたい

*2:サテと比べれば直接的かもしれないが、普通に禁止とかベシの否定とかを使ってもよいはず