ronbun yomu

言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

葛西太一(2020.8)日本書紀における語りの方法と定型化:文末表現「縁也」による歴史叙述

葛西太一(2020.8)「日本書紀における語りの方法と定型化:文末表現「縁也」による歴史叙述」『和漢比較文学』65.

要点

  • 書紀における、述作者の立場による注釈的記事が双行ではなく本行に現れるケースを「語り」として取り上げ、各記事の述作方針について考える
  • 書紀の語りの例は、以下の3つに分けられる
    • 類型① 叙述中のAは、今のBである:今謂橘是也。
    • 類型② 叙述中にAと名付けられたものが、今ではBと訛っている:今謂松浦訛也。
    • 類型③ 叙述中のAは、Bの由縁である:此桃避鬼図之縁也。
    • このうち①②は記にもあるが、③は紀にしかない
  • この縁也は以下のような特徴を持ち、「過去の一事象を述作現在と結びつける」機能があるものと考えられる
    • 「此其縁也」「此~之縁也」「其是之縁也」のように定型化し、
    • 「今」「世人」「所謂」「諺」などと共起する
  • 他の文献において、
    • 「縁也」は先行漢籍に用例が乏しい一方で漢訳仏典には例が見出される(これを継承したものか)
    • 上代には書紀のほかに風土記の例があり、これは日本書紀から学んだものと考えられる
  • この「縁也」は日本書紀区分論におけるβ群に偏在しており、「少なくとも、各区分の間で語りの述作方針が共有されていないことが確実視される」

メモ

  • 以下の漢検の論文の方には「日本書紀β群には和習が多く、しばしば規範性の高い漢語漢文の範疇から逸脱するような語法も見られる。しかし、文末定型表現「~縁也。」がそうであるように、なかには漢籍や仏典の語彙語法に学びつつも発展させ、自らの叙述内容に即した表現として応用する場合がある。これも漢籍・仏典や漢語漢文を受容した「和化」の一例と言えるかもしれない。」(p.15)とある*1

www.kanken.or.jp

雑記

  • スタンディングデスクがあったほうがいいかもしれない

*1:森先生の審査員講評に「この分野の最も優秀な若手研究者を顕彰でき、長年の審査委員として感慨深いものがある。」とあって、こんなこと言われたら額装してしまうかもしれない

大坪併治(1969.6)提示語法について:訓点資料と今昔物語とを中心に

大坪併治(1969.6)「提示語法について:訓点資料と今昔物語とを中心に」『佐伯博士古稀記念国語学論集』表現社.

要点

  • 提示語法(「文中のある語を無格のままで提示し、これを代名詞で受けて特定の格を与える形式」)は、訓点資料に幅広く認められ、
  • 和漢混淆文にも引き継がれたと考えられる(→大坪1981「提示語法」)

hjl.hatenablog.com

  • 特に今昔に見られる提示語法は、以下の特徴を持つ
    • 天竺震旦部、本朝部の初めに偏って現れる(前半が漢文脈の系統であることと符号)
    • 承ける代名詞が主語のものが最も多く、これは和漢混淆文・訓点語の一般的特徴であっただろう
      • 薬筋一ツガ布三段ニ成ヌル事、此レ観音ノ御助也ケリ。(今昔)
    • 会話・心話に現れるものが多い(理由はよくわからない)

p.31

雑記

  • 「全然中身ができあがってないのに二校が来てしまう」っていう、妙にリアルな夢を見た 怖かった

妙摩光代(1979.8)『中華若木詩抄』に見る文末の「也」と「ソ」

妙摩光代(1979.8)「『中華若木詩抄』に見る文末の「也」と「ソ」」『田邊博士古稀記念国語助詞助動詞論叢』桜楓社.

要点

  • 中華若木詩抄のナリ・ゾについて、以下の特徴を得た
    • 先行論が博士家系を対象とすること、中華若木詩抄が単純な聞書でない(手控的性質を持つ)ことを踏まえる
  • ナリにはNナリ・V(助動詞含む)ナリ両用あるが、ゾにはVゾが大半
    • 動詞後接の場合にはナリ・ゾが均等に現れるが、アリ・云フにはゾが付きやすい
  • 通釈の場合にはナリ・ゾが均等だが、語釈・鑑賞にはナリが多い
  • 特に直接的語釈(提示された主語と叙述すべき事柄とが密接な関係で、普遍的な内容である場合)にはナリを使う
  • 鑑賞文にはナリが使用され、特に総合判断に基づく漢詩の評語にはほぼナリが使われる
  • 故事・引用の地の文にもナリが多用され、(会話引用の場合にはゾだが、)会話が漢文体表記、尊敬語による会話、解説的要素のある文の文末もナリである
  • ゾは各説の引用に「~云フ」とともに使用され、登場人物の心情を解説する場に散見する
  • 全体的に、ゾは通釈文に多い一方で、上のナリ優勢のケースにもゾが見られるが、これは「漢詩の解釈に講述者独自の見解が織り込まれた」場合である

雑記

  • リアフォR3を買うか悩む、日常的に持ち運ぶにはちょっと重いし肩痛めそう

大鹿薫久(2007.4)「連体なり」の性格:源氏物語の文章を通して

大鹿薫久(2007.4)「「連体なり」の性格:源氏物語の文章を通して」加藤昌嘉(編)『講座源氏物語研究 第八巻 源氏物語のことばと表現』おうふう.*1

要点

  • 連体ナリが以下の性質を持つことに基づいて、その意味と、連体ナリの性格について考える
    • ①ナリ∅(ナリによる終止)、②ナラム・ナリケム*2(・ナルラム・ナラジ)、③ナナリが純粋な地の文に現れないのに対して、
    • ナルベシ、ナメリ、ナリケリは地の文にも現れる
      • その点で、田島の例外処理は正確でない
  • 地の文・非地の文は、以下のような規定による
    • 地の文:発話者自らが関与し得ない、当事者性を持ち得ない世界を描く文
    • 非地の文:発話者が関与し得る世界、そこに出来する出来事や状況の当事者でもありうる世界を描く文…会話文・心内語・消息文と草紙地(①②③はこれにしか現れない)
  • 連体ナリは、(北原・高山を援用・修正すれば)コピュラとして「コトの構成」を果たすものである
    • 例:何人ならむと問へば、「明石の浦より、前の守新発意の、御舟よそひて参れるなり。……」→「我ハ」と「~参れる(こと)」との結びつきを述べる
  • ナリ∅は、この構成されたコトが真であるという肯定判断であり、この言い切りは②の形式とともに、叙想法(大鹿2004)に位置付けられる。言い換えれば上の①②(③)は、「「連体なり」に関して地の文では叙実法が成立しないということを示している」ことになる
    • 地の文は、「いかなる意味においても当事者性を持ち得ない世界」であるから、ナリ∅、ナラムのようにして「準体句で表される事態を発話者(語り手)自らの内なる知識としてそれを別の項に結びつけ、真であるということができない」
      • (Nナリが地の文でも用いられるのは、そこにあるモノが一般的なモノと同質なので、事実言明が可能だから)
  • 逆に、地の文でも用いられる形式については以下のように考えられる
    • ナリケリは、ケリが確定した世界を表す(=準体句で表される事態を知識として持っている)ため、地の文で事実言明できる
    • ナルベシ・ナメリは事実言明できない形式だが、「私には~と思われる」という、「真偽判定の埒外」の「発話時に単に想定された事態」であるので、地の文でも用いられる
    • ③が非地の文に偏在する理由はよく分からない

雑記

  • この本、メンバー豪華なのに引かれてるのあんま見たことない(国語学メンバーもだけど、加藤「句読を切る。本文を改める。」が面白い)*3

*1:国語研DBは2006になってるけど、奥付には平成19とある

*2:ナリケムの場合は全てナリケムカシの例っぽいが、特に言及はない

*3:大鹿先生の論文集、出版されたりしないだろうか(みんな欲しいと思う)

坂詰力治(1972.9)清原宣賢講『論語抄』における文末表現について:指定辞「ゾ」「ナリ」を中心として

坂詰力治(1972.9)「清原宣賢講『論語抄』における文末表現について:指定辞「ゾ」「ナリ」を中心として」『国語学研究』11.

要点

  • 論語抄(宣賢抄)と論語聴塵におけるゾ・ナリについて、
    • 聴塵においては文はナリもしくは動詞・助動詞で終止するが、抄においては必ずしもゾ専用というわけではない(ゾ:ナリ=6:3.5)
    • が、それぞれに上接する語を見れば、聴塵は文語的(リ・ザリ・ベシ…)、抄は口語的(タ・ヂャ・ナンダ…)という目安自体は認められる
  • 聴塵・抄においてゾ・ナリが混在することについて、
    • 聴塵は手控であって抄物の意見を反映させる必要性がなく、「客観的な陳述能力」と自然に結びつくナリを採る
      • 先行抄の引用・注の場合にはゾが現れる
    • 聞書には、(講述するという行為によって)主観的なゾが現れると基本的には見るが、
    • 手控のナリの部分(か、もしくは中国側注釈書を直接訓読したもの)が、抄にもナリとして現れるものと考えたい
      • ただし、口語的な助動詞にナリが付くこともあるので、これだけだと説明が難しい
  • 聞書におけるゾ・ナリの混在については、以下のように考える
    • ナリ体の先行抄(業忠講、天隠竜沢筆記の『論語聞書』)をそのまま組み入れて置き換えたことによるものがある
  • そうでない改変については(上の改変も含めて?)、
    • ① ゾ・ナリを用いないものは、「そのまま受講者に伝達するにすぎない」もので、積極的な判断を行っていない
    • ② ナリは客観的判断に基づいており、
    • ③ ゾは講述者の判断が積極的にあらわれて、聴者への説得性・強調性がある

雑記

  • ronbun yomanai

岩間智昭(2022.2)近世口語資料としての近世中期勧化本試論:菅原智洞作『浄土勧化文選』を対象に

岩間智昭(2022.2)「近世口語資料としての近世中期勧化本試論:菅原智洞作『浄土勧化文選』を対象に」『国文学論叢』67.

要点

  • 以下の3点の分析より、『浄土勧化文選』(宝暦11[1761]刊)が、「「非中立的」な表現を内包する」資料であり、文語性の高い資料であることを主張する
    • 従来、森岡健二勧化本の口語性を指摘し、それが「中立的な口語」であることを指摘することなどを承ける
  • ① 断定の助動詞にダの例がなく、上方で用いられる(作者の智洞が学を積んだ地である)ヂャの例しかない
  • ② 原因・理由表現にサカイがなく、ホドニ・ヨリテが使用される
    • 後件には命令・禁止が来る例が多く、これは勧化本が「説教の「場」を活写したものであるがゆえ」のことである
    • 以上2点から、地域的・位相的に偏りがあることが分かる
  • ③ ハ行動詞連用形はほぼウ音便化する一方、形容詞連用形は非音便形の方が多い
    • このとき、仮定と連用形中止においては非音便形が多いこと(矢島1986)を参考にすると、勧化本も同様の傾向を示し、
    • そもそもの連用形中止がテよりも多いことは、勧化本の文語性の強さを示す*1

雑記

  • 買ってみようかしら

www.izumipb.co.jp

*1:ここは音便形がどうかという議論から離れているのと、連用形中止イコール文語とは言えないだろうから、話が飛躍している印象

田島光平(1964.3)連体形承接の「なり」について:竹取物語を中心にして

田島光平(1964.3)「連体形承接の「なり」について:竹取物語を中心にして」『国語学』56.

要点

  • 結論を先に挙げる
    • 平安時代初期の連体ナリは、連体形が体言的である場合(いまだ見ぬ(モノ)なり)を除き、根拠をもって相手に説明する場合に用いられる辞である
      • 竜を殺さんと求め給へばあるなり(竹取)
    • ② この用法から、根拠と事実を逆に置くことによって「―(すれ)ばなり」などが現れた

分析

  • 1について、竹取のナリを見ると以下のことが言える
    • 会話文・手紙文にだけ用いられて、地の文には用いられない
      • 地の文の場合も、「読者の方に顔を向けて」いる例である
    • 上位者から下位者へという関係がある
    • 文の末尾にのみ用いられる
    • 疑問文・詠嘆文・命令文などには用いられない(≒説明文である)
      • この場合には根拠が示されることが多いが、明示されない場合も暗示的に根拠が存在している
  • このことは、伊勢・土左・最勝王経古点も同様
    • なお、最勝王経古点の場合は、根拠を明示する語(~バなど)はないが、説示が深い確信に基づいてなされ、根拠を要さなかったためか
  • 2について、
    • 都へとおもふをもののかなしきは、かへらぬ人のあればなりけり(土左)
    • のような例は、「かへらぬ人のあれば、都へとおもふをもののかなしきなりけり」と等価であり、
    • (ナリが根拠と呼応して用いられ、ナリが根拠に密着することで、)根拠と事柄が逆に置かれることによって生まれたものと考える
      • 春日はユヱニナリ・タメニナリは一種の訛った形(だがこの時代の訓読文には普通)とするが、バナリ・テナリがあることを踏まえれば、むしろそれが本来の形ではないか

雑記

  • 60年前の論文…………????