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言語学(主に日本語文法史)の論文を読みます

松尾弘徳(2000.6)天理図書館蔵『狂言六義』の原因・理由を表す条件句:ホドニとニヨッテを中心に

松尾弘徳(2000.6)「天理図書館蔵『狂言六義』の原因・理由を表す条件句:ホドニとニヨッテを中心に」『語文研究』89

要点

  • ホドニ・ニヨッテの交替現象が、天理本内部で見られることを指摘し、
  • 従来虎明本→虎寛本の時期での交替現象と見られたものを、むしろ天理本の筆録時の様相が当代のあり方に即していることを示す

前提

  • 中世から近世にかけてのホドニ・ニヨッテの交替について、小林(1977)では虎明本・虎寛本の比較が基になっている
  • その交替について、天理本の内部で筆録者による差異が生じていることを示す

量的な面から

  • 天理本と虎明本・虎清本は同時期の台本であり、一見同様の様相を呈する
    • 天理本の条件表現はホドニ・ニヨッテが8割を占め、ホドニ>ニヨッテ
    • 虎明本・虎清本ではホドニ>ニヨッテ、虎寛本はホドニ<ニヨッテ
  • が、上下2巻に分けて調べると、下巻ではホドニの勢力が落ち、ニヨッテが伸長する
    • 天理本は複数の筆録者がおり、後半へ進むにつれての、ナラ・タラの出現、ゴザアルの激減などの現象が指摘されている

質的な面から

  • 前接語を見ると、ニヨッテは上接語にウを取ることがなく、上下巻ともに、ホドニがその役割を果たしている*1
  • 後件を見ると、ニヨッテが命令・依頼を導くことは上下巻通じて少なく、一方、ホドニは命令・依頼の場合にのみその勢力を保った
    • その昆布を、某、買い取らうほどに、捨てゝ、太刀を持て(昆布売)

まとめ

  • 以上より、天理本後半部の条件句の様相の方が、虎明本・虎清本よりも筆録時の様相に近かったと言える
    • 条件のカラ・モノが下巻にしか見られないことも傍証となる
  • 内部差の発生理由はよく分からないが、いずれにしても当代の様相の反映であると思われる
    • 「筆録者の相違・筆録者の筆録意識の変化・筆録時期の相違・天理本の詞章が筋書き的で未整理である為など、いくっかの可能性を想定してはいるが、未だ明確な回答は見出せてはいない」

雑記

  • 2月が終わらない

*1:「上巻ではあらゆる上接語の面でホドニがニヨッテを圧倒している」とあるが、ここは数量で比べても仕方ない箇所だろう。

岡部嘉幸(2011.3)否定と共起する「必ず」について:近世後期江戸語を中心に

岡部嘉幸(2011.3)「否定と共起する「必ず」について:近世後期江戸語を中心に」『千葉大学人文研究』40

問題

  • 現代語においては必ずは肯定述語と呼応するが、江戸語に否定述語と共起する例がある
    • 女房「そう仕なせへ。必(かならす)好男(いゝをとこ)を持なさんな浮世風呂
    • 「必ずしも」は調査から除く
  • 江戸語~明治期における変遷の見取り図を示す

「必ず」の述語

  • 江戸語においては、
    • 肯定述語との共起
      • 命令:必ず取りに来て呉りやれ(花暦封じ文)
      • 意志:必ず待つぞ(恋乃染分解)
      • 叙述(一般論か推量):げいしやが三味せんをひくと、かならずきせるで茶わんをたゝく人なり(傾城買四十八手)
    • 否定述語との共起
      • 禁止(冒頭の例)
      • 意志:必ず他人には言ふまい(花暦封じ文)
      • 叙述型はない*1
    • 江戸語においては否定述語の共起が多く、そのうち禁止が圧倒的
    • ただし、洒落本・滑稽本では否定述語との共起は低く、人情本では高い
  • 現代語においては、肯定述語に関しては江戸語と変わらないが、否定述語は「必ず家にいないような女は…」の叙述型の1例のみ
  • 近代語(太陽1895・1901)は否定述語と共起する点では江戸語と連続的で、否定述語の叙述型が存する点では現代語との中間的な性質を示す

まとめ

  • 否定述語の共起は江戸語では盛んに用いられ、近代語でも保たれたが、現代語に至って用いられなく鳴った
    • 現代語では決して・絶対の担う範囲になっている
  • 類義的副詞との関係や構造的観点からの分析も必要

雑記

  • テレビに蓮池氏出てくるとビビる

*1:「江戸語において「叙述型」が存在しなかったと断言することは躊躇される」とはあるが、例えば以下のような例はどうか。
庵太郎、かならずさたなしじやぞ。(虎寛本・比丘貞)
かならずさたハない事。(軽口初売買)

釘貫亨(2016.3)上代語意志・推量の助辞ムの成立と展開

釘貫亨(2016.3)「上代語意志・推量の助辞ムの成立と展開」『訓点語と訓点資料』136

前提

  • 活用助辞ム(いわゆる助動詞)が、精神的心理的意味を持つム語尾動詞から分出されて成立したと考える(釘貫2014)
  • ムの意味は人称によって決まるのではなく、上接語が意志動詞の場合に意志、無意志動詞・状態動詞・形容詞・形容動詞の場合に推量に偏る(釘貫2016)
  • 以上を前提にして、意志・推量の用法の成立の新旧と、その後の展開について考えたい

hjl.hatenablog.com

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意志・推量の新古

  • 意志の意を先に獲得した可能性を考える
    • ムの母胎となったム語尾の精神的動詞は、大多数が意志動詞で占められており、ムが分出された場合に実現された意味が意志だった、という可能性
  • 推量の意を先に獲得した可能性を考える
    • 意志動詞と異なり、推量動詞(おす・はかる)は上代には存在しないので、形態的な痕跡のない「推量」がその資源なしに登場したという事態を説明しなければならず、しかも意志動詞「以外」に接してそれを標示した、というのは考えにくい
  • 意志・推量が同時期に成立した可能性を考える
    • やはり、推量の意が取り出されることが説明しがたい
  • 以上より、意志が先行し、推量が後発的に生まれたものと考える
  • では、その推量の意はどこから来たのか?
    • 状態性述語は話者の外側にある世界の事物の状態を表すもので、その主格に三人称が多く分布するのは自然
    • その存在の様態に関する話者の態度が文法的に表示されることで、推量と解釈される意味となる
    • 意志は近接する未来において話し手が叙述する事態を実現することの意思表示、推量は近接する未来において話者以外の動作主体が叙述事態を実現することを予測するという表示であり、その「近接する未来に叙述事態が実現する」という事柄の共通性により、意志のムが推量に用いられたと考える

ク語法マクの展開

  • さらに意志・推量にムは、マク(ムのク語法)と欲しによるマクホシによって、話者の動作願望を表す方法として発達する
    • 並行して、マクホリ・マクガホリなどもあり、そのうちマクホシがマホシに変化して用いられた
    • また、マクホシは[話主・連用形・マク・ホシ」という構造を取るが、「ホシ」の位置に「惜し」「畏し」などが来て、話者の感情を表示することもあった
    • [連用形・マク・感情形容詞]としてまとめられるが、マクホシは動作願望を示すために意志動詞が上接し、惜し・畏しなどの場合には無意志動詞が比較的多い
  • (マクホシについては釘貫2018がある)

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雑記

  • ようやく追いついた(が、また追い越されそう)

釘貫亨(2016.3)上代語活用助辞ムの意味配置に関与する統語構造

釘貫亨(2016.3)「上代語活用助辞ムの意味配置に関与する統語構造」『万葉』221

要点

  • ムの意志・推量の意について、人称ではなく上接語の意志性がその意味の決定に関与することを示す

前提

  • 活用助辞(いわゆる助動詞)ムが、ム語尾動詞のうち「精神的心理的意味」を有する語(イサム、ヲシム、アキラム…)から分出されたものと考える(釘貫2014)

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  • 山田孝雄の「複語尾」の考え方を歴史的に展開し、活用助辞ムの意志・推量に関する意味配置について述べることを目的とする

上代のム

  • 「一人称が意志、三人称が推量」というのが一般的な説明だが、人称がムの意味を決定しているのではなく、上接する語と相まって決定されるものと考える
    • 動詞・形容詞・形容動詞が上接するが、これらには連続性(ex.ガ格のみを要求する自動詞と形容詞)が認められる
    • すなわち、ムの上接述語は、意志的他動詞から状態表示の形容詞に及び、その語群がムの意味に関与していると考える
  • ムが意志を表すか推量を表すかは、上接語の意志性の有無が関与すると考える
  • 人称と語の種類、意志・推量の分布を見ると、
    • 全体として、意志動詞の場合には一人称意志を表し、無意志動詞・形容詞・形容動詞の場合には、動作主が三人称で話者の推量を表す例が多い
    • 確かに人称が意味を決定しているようにも見えるが、ムという文法形式が一人称・二人称・三人称のすべての環境に出現し、無意志動詞で意志の文脈的意味を持つ例*1も、一人称で推量の意味が生じる例もある
    • このことより、ムの意味を決定する要因としては、人称ではなく上接語の性格が優越的である
    • 述語の確定ののちに人称の分布が決まり、人称の制限が生じる
    • なお、ムを接した意志動詞は一人称意志に集中するが、無意志動詞は三人称推量への集中度が弱い

基本形と人称

  • 一人称意志に集中していた「見る・為・行く」の基本形における人称の現れ方を見ると、基本形の場合にはそのような集中は起きていない
    • すなわち、意志動詞は統語規則として一人称以外の動作主を排除しない
  • 意志動詞がムを接する場合に顕著に人称制限が起こる理由について、
    • 多くの意志動詞において意志性は形態情表示されず、単語内に含意されるだけである
    • そこに、精神的心理的意味を表示するムが接続すると、内部に含意されていた意志性が形態として表示されることになり、一人称を強力に要求するのではないか
    • 逆に、無意志動詞の場合はもともと含意されない意志性は形態上露呈せず、「叙述する事態に対する話主の精神的な働きがムによって表示され」、それが「推量」と解釈されるのではないか

雑記

  • 年度が終わろうとしている、許可した覚えはないのに

*1:過程に関する意志の場合に無意志動詞が意志的意味を持つのはおかしくない(早く忘れよう)ので、こっちに関しては意志の規定の問題だと思う。なお、三人称で意志の意を持つ例として「引く」が挙げられており、CHJで「引く」+「む」を検索した限りでは「ま葛延ふ小野の浅茅を心ゆも人引かやも我がなけなくに」(2835)の例だと思うのだが、これは推量の意では?三人称主語が意志の意を持てる(*彼が行こう)文脈を知りたい。

栗田岳(2010.9)上代特殊語法攷:「ずは」について

栗田岳(2010.9)「上代特殊語法攷:「ずは」について」『万葉』207

要点

  • 上代特殊語法ズハについて、その特殊性を、否定から離れ得る環境における「不望」の意の前景化にあると考える

前提と問題

  • 特殊語法ズハを基本的には仮定条件であると考えた上で、その特殊性について考える
    • かくばかり恋ひつつ不有者高山の岩根し枕きて死なましものを(86)
  • 仮定条件として見る際、仮定条件としての質をどう規定するかという点について、
    • 小柳(2004)は「逆行」とし、山口(1980)は「目的的性格」とした
    • 前件後件の順序が表される事態の先後関係と食い違う仮定条件
    • 「飲む→乗る」という先後関係に対する「乗るなら飲むな」
    • 「死ぬ」が先行すると「恋していない」が生じ(逆行)、だからこそ後件事態「死ぬ」を求める(目的的性格)

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  • 秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつ不有者(1608)
    • 「露と消えるのだろうか」と解すると86のような願望的解釈は採れないし、ズハは逆行・目的的性格ではなくなる
    • 「推量型」として区別する向きもあり、包括的な説明が求められる
  • また、逆行・目的的性格はズハにしか見られないので、それがなぜ見られるかも明らかにされなければならない
  • 小柳説(「言語化される反事実」と「言語化されない事実」の構造)にも従い難い点がある
    • 験なきものを不念者一杯の濁れる酒を可飲有良師(飲むべくあるらし)(338)
    • 「酒を飲む」という事実を反事実・不望とする必然性がない

濱田説の発展と「不望」

  • 本稿の説は、濱田敦説*1の延長にあるので、まずはそこを確認しておく
    • 「話者の意識の中に「こんなにいつまでも徒に恋しく思っていたくない」という気持ちがある為に、それが打消の「ず」と なって、現るべからざる「かくばかり恋ひつつあらば」という条件句の中に現れる結果となったものではないかと思う。」という理解
    • 「こんな恋をしているのなら」と「ず」を否定の意として取らず、肯定文として読み、望ましくない(不望)点に「ず」が対応しているものと見る考え方
  • 実際の条件文においては、肯定(XならばY)は否定(XでなければYでない)を含意しうるという「否定辞を否定以外の意で用いやすい環境」がある
    • この否定はことさらに表現する意味がなく、肯定側のみがあれば事足りるのであって、否定辞は「宙に浮くことになる」。これが、ズハがズとありながら否定文を離れ得たことの背景
  • 特殊語法ではないズハに以下の3段階を設け、特殊語法との連続を考える
    • 単なる否定の段階:仏造るま朱不足者水溜まる池田の朝臣が鼻の上を掘れ(3841)
    • 否定かつ、ズの事態(寝ず)が不望という段階:玉くしげみもろの山のさな葛さ不寝者遂にありかつましじ(94)
      • ヌカで希求が表されるのもこれと共通する性格か
      • 条件文や疑問文という必ずしも肯否が併存する必要のない環境において、ズは否定を離れて不望の意に転ずる
    • 否定かつ、ズの上接事態(相見る)が不望という段階:不相見者恋ひざらましを妹を見てもとなかくのみ恋ひばいかにせむ(586)
      • 相見たから恋が募ってしまったので、「相見ず」ではなく「相見る」が不望
      • 反実仮想の文の仮定条件節は、言語主体の不望の意が表出されやすく、このようにして「否定」から「不望」が前景化したと考える
    • ズの上接事態が不望(否定ではない)のが特殊語法で、もともとは上と連続する形で、反実仮想の仮定条件節とセットで現れてきたのではないか
      • 特殊語法として確立することで、反実仮想の仮定条件節でないものも現れてくる
      • 一時期盛んに使われても、一方で、ズが否定の意を持たないとその存立の基盤が危うくなり、廃れていった(特殊語法だった)のだろう

雑記

  • 元号、誰が関わっているんでしょう?

*1:濱田敦(1948)「上代における願望表現について」『国語と国文学」25-2、(1948)「肯定と否定 うちとそと」『国語学』1

細川英雄(1982.7)『天草版平家物語』の「な—そ」をめぐって

細川英雄(1982.7)「『天草版平家物語』の「な—そ」をめぐって」『国語学研究と資料』6

前提

  • 禁止表現「ナーソ」は室町末から江戸初期にかけて口頭語から姿を消す
    • 否定の要素が文頭に来る構造が極めて稀であるため
  • その過渡期の資料として天草平家を見るとエソポなどと比べてナーソが現れており、当時の口語に比して勢力を保っている

天草版のナーソ

  • 覚一本・百二十句本におけるナーソ、ベカラズ、マジなどが天草版のナーソに対応している
    • さなおぼしめされそ(天草版)/おぼしめすべからず(覚一本)
    • な思はせられそ(天草版)/平家ノ方人スルト思召レ候マジ(百二十句本
    • この状況から判断すると、天草版のナーソは原拠本の表現形式をほぼ踏襲した形で成立していると言えそうである
  • 一方、ナーソ以外の形式を見ると、
    • 覚一本に多いベカラズは天草版にはほぼなく、あっても故事の引用などの固定的な使用
    • 「べうも候はず」に対応する「べうもない」の形は見られるが、禁止の意では使われていない
  • マジも既に見られないが、ベカラズ、マジキ、マジウ候などが、天草版ではマジイに移行していることが指摘できる
  • 原拠本がナーソの残存に影響した可能性もあるが、ここでは日本語教科書としての性格を考慮に入れ、教科書としての言語的な統合・整理が行われたと考えると、ナーソが従来のものを踏襲しつつ、文語的な禁止表現をも取り込んで、禁止表現中の典型の一つとして用いられたのではないか、と考えられる
  • 同様、天草版の「ーナ」も、ベカラズ・マジ・ナーソに対応する形で現れているが、これは口語の中での発達の状態を反映したものと見られる
  • 以上の流れをまとめると、

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p.54

吉田永弘(2012.3)平家物語と日本語史

吉田永弘(2012.3)「平家物語と日本語史」『愛知県立大学説林』60

要点

  • 原拠本と天草版との対照による研究方法のあり方について

前提

  • 一般的な諸本系統図のモデル(図1)は、書写過程以外における「作られた本文」を持つ異本の発生のある平家においては適用できず、図2のような古態論を想定することになる
    • 作られた本文を「異本」、移された本文を「伝本」とする

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  • 平家を用いる際、以下の3通りの扱い方があるが、ただちにⅠ・Ⅱとして扱うことはできない
    • Ⅰ原態成立時の資料
    • Ⅱ異本成立時の言語事象を含む資料
    • Ⅲ伝本成立時の言語事象を含む資料として用いるか、
    • 古態を示すとされる屋代本・延慶本はⅢの検討が欠かせない
  • 異本間の言語を比較して相対的な新旧を測ることにより、「どの時代の言語現象の反映か」を判断することができる

屋代本・延慶本・覚一本の事例

  • 屋代本に「氏種姓」の例があるが、延慶本には例がなく、中世後期には例があることから、屋代本の例をもって13Cの例とするのは問題である
  • 延慶本に一例のみ「たとへ」(他はたとひ)の例があるが、覚一本・屋代本には見られず、かなり早い例ということになる
    • が、この例は「設」に「エ」のルビが振られた例で、応永書写時以降に加えられたものであるので、Ⅲの段階の問題として処理することができる
    • 他、長門本・百二十句(平仮名本)にも「たとへ」の例があり、これは異本レベルの問題である
  • 日国が延慶本を初出とする次のような語は、安易に鎌倉時代語とは認められない
    • 「濡れ鼠」の例は、覚一本・屋代本にはなく、長門本・盛衰記にはある
    • 形容詞「のろし」は、覚一本になく(屋代本は欠)、長門本・盛衰記にもない
  • 中古にない「御+形容詞」が、覚一本に「御恋しく」として現れるが、屋代本には「恋しくや」とあり、逆に、屋代本に「御馮敷」とある箇所が、覚一本では「たのもしう」とある。御+形容詞は異本成立時以降の問題と考えたほうがよい
    • 延慶本には御+形容詞がないが、古文書の御+形容詞の例をもって、覚一本の例も鎌倉時代の例とされることがある。しかし、御+形容詞が使われていたことと、それが覚一本に引き継がれたかは別の問題である

斯道本・天草版の事例

  • 原拠本に近いとされる斯道本に関しても、伝本成立時(室町後期)の言語が反映されている可能性がある
  • 中世前期→中世後期という流れで原拠本と天草版を扱う際、問題となる事例がある
    • 斯道本では「する」の尊敬語として「召さる」が用いられており、これに天草版の「させらるる」が対応するが、中世前期には「する」意の「召さる」はない
    • 斯道本に「通ンヤウヤ有ヘキ」のような打消のン(<ヌ)の例があるが、延慶本・覚一本にはない
  • 中世後期に書かれた物語の文体の基調は天草版よりも斯道本に近く、斯道本と天草版の対応箇所は実際の歴史的変化ではなく同時代の文体差を示した箇所である場合がある
    • したがって、斯道本と天草版の対照は、歴史的変化を示す積極的な変化としては用いにくい

雑記

  • 天草平家、エソポ、金句集の画像が公開されたらしく、大興奮(3/1)

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